明治期に敷設されたJR大村線と長崎本線旧線は、鉄道人達の熱きスピリットと長崎の歴史を今に伝える貴重な遺産
平成26年当時、「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」が大いに注目されていました。
名称がそのまま内容を表していますが、明治期における急激な近代化を成し遂げる要因となった「製鉄所」「造船所」「炭鉱」「紡績工場」「砲台」「教育施設」「軍養成所」などがその構成要素であり、とりわけ大陸に近く、採炭地でもあった九州西部には多くの「構成遺産」が残されています。
言うまでも無く「鉄道」は、それらの構成要素をつなぐ重要な存在だったことは疑う余地がありません。
船舶もまた重要な役割を果たしたとは思いますが、天候に左右されにくいという点を考えると、当時の鉄道には及ばなかっただろうと思います。
さて、九州において明治20年に創設された「九州鉄道」が、早岐-長崎間を開通させたのが、明治31年。
今回は非常に大まかではありますが、その大村線と長崎本線・旧線の中に鉄道創始期の名残りと長崎県の歴史を辿ってみることにしました。
出発は大正14年に建てられた「道ノ尾駅」からです。
この駅は長崎に原爆が投下された直後、救援列車の最前線駅となりました。当時の駅前には多くの重篤・瀕死の負傷者が自力及び他者によって運びこまれ、さながら地獄絵図のようであったと伝えられています。
原爆投下時には、この辺りにも民家の屋根を飛ばしたりするほどの爆風が吹いており、その時の柱の歪みは今でも確認することができます。
この駅舎は現在、何の指定もありませんが、貴重な被爆建築物です。
駅前を流れる小川は当時、火傷を負い水を求めた負傷者が折り重なるようにして亡くなった「命の川」であり、街道筋に立つ大クスは被爆木は救護所を目指した負傷者や救護者達の生死のドラマを見続けてきたものです。
現在駅舎と大クスに掲げてある案内板は滑石中学校生徒会が設置したものだけです。
令和3年現在、「ねる駅長」という名物ネコが、朝夕行き交う乗客たちの間で大変親しまれています。これも、古い小さな駅舎ならではのことです。
ちょうど道ノ尾駅に懐かしい色合いのディーゼル・カーが停まっていました。行き先は「早岐」です。これからこの列車が走るルートを辿ることになります。
道ノ尾駅のすぐ北側に早速、明治期の足跡を感じることができる場所があります。
この切り通しを建設している最中の古写真にその姿が残っていました。おそらく明治20年代でしょうか。何気なく見ている多くの切り通しやトンネルが多くの人の人力で造られたものであることがわかります。
ひとつひとつを確認することは不可能ですが、こんな小さな流れにもレンガ造の橋梁が架けられています。
これは支間長3.66mの高田第二橋で、明治31年に建設されたものです。
撮影した2014年から116年、19世紀のものとは思えないほど良い状態に見えます。
高田第二橋の近くには長与小学校高田分校(現在の高田小学校とは少し離れた場所)があり、ここの校庭もまた原爆被爆時には多くの負傷者が運ばれた臨時救護所となりました。
被爆翌日にこの場所で負傷者の手当てをしたという福田須磨子さんの「われなお生きてあり」によると、負傷者が汚した包帯をこの小川で洗ったという記述があります。
2駅先は長与駅。
この駅も長崎市内から比較的近距離にある為、被爆時には多くの負傷者で埋まりました。
長与駅の駅舎も九州鉄道敷設期に建てられた歴史的な建築でしたが、平成8年に建て替えられた為当時の面影は全く無く、この駅名標だけがひっそりと残されています。
これはいつの時代のものかわかりませんが、寄せ集めた木の板に手書きの文字から考えると、物資の豊富でなかった時代に作られたものかもしれません。
明治30年、九州鉄道時代に開業した駅ですが、当時をうかがわせるものは、この敷石だけのように見えます。
1,093.6mもの松ノ峠トンネル前にある本川内駅です。
この駅は昭和18年に開業したもので、九州鉄道時代には無かったものです。
この駅は山裾に位地し線路に傾斜があった為、駅に入る際スイッチバックするというめずらしい駅でした。(現在は気動車のパワーが上がったこともあり、廃止されています)
九州鉄道の早岐~長崎間は①長与~長崎、②早岐~大村、③大村~長与間の順で着工されました。
いずれの区間も山岳地帯を通ったり、海岸線がせまる場所を通ったりと、難工事の連続だったということです。
第17号 松ノ峠トンネルは明治31年に建設されています。
名称、建設年不明ですが、長与~本川内間にある橋梁。
明治31年建設の山川内橋梁(本川内~大草間・煉瓦アーチ)
同じく明治31年建設の伊木力橋梁。(大草~本川内間・石造アーチ)
明治31年の開通時につくられた大草駅を少し過ぎると、海に面した場所に石垣が残っています。
ここはスウェーデン人船長であったベルンハード・ルンドホルムと長崎出身であった日本人妻松本ヒロが住んだ洋館ルンドホルム邸があった場所です。
ルンドホルムは明治32年に上海での仕事を辞め、ヒロと共に長崎に移住し、大草駅に近いこの地に土地を購入し移り住んだということです。
石垣のある場所には船着場があり、趣味のセーリングを楽しんだそうで、ルンドホルムの没後、館は三菱重工の所有となり同社のヨットクラブが置かれていた時代もあったようです。
当時の九鉄長崎線と大村湾の景色が絵葉書の中に残されています。
明治期、多くの外国人が長崎に移り住んだのに対し、わざわざこのような遠方に土地を購入して移り住んだルンドホルムの気持ちがわかるような気がします。
美しい海岸沿いを走る旧長崎本線の景色の美しさはもちろん今も変わっておらず、見る人を惹きつけます。
長崎市出身であった福山雅治さんの「蜜柑色の夏休み」の歌詞には汽車に乗ってこの旧線を通り、大好きなおばあちゃんの家に泊まりに行く夏休みの思い出が綴られています。
途中割愛して大村駅に到着。
大村駅は開業当時のものに大正元年から改築が進められ、同7年に完成したものです。
当時の写真と比べても保存の状態がよく、大正期の建築を現代に伝える貴重なものとなっています。
駅前は広々としたロータリーになっています。青空が広がり実に長閑な風景という感じがします。
鉄道はまた戦(いくさ)の時代の記憶とも重なります。
大村には、大村海軍航空隊や第三五二海軍航空隊、陸軍歩兵第46連隊の他、第21海軍航空廠など多くの軍施設がありました。
当然軍関係の人はこの駅を多く通過していったことになります。
写真は、上の場所に集結し、これから出征しようとする陸軍歩兵第46連隊の兵士達です。
この駅から列車に乗り、軍港であった佐世保港から外地に向かった兵隊さんも随分といたことでしょう。
駅舎はそんな歴史も静かに見守ってきたわけですね。この平和な光景からはそんな時代は想像がつきません。
東彼杵郡にある一本木トンネル。
同じ場所で明治30年頃に撮影された写真です。
写っているのは私鉄であった九州鉄道の技師と工夫さん達。
このようなトンネルをひとつひとつ人力で造っていった歴史がよくわかる一枚です。
尚、アングル上同じ場所に立つわけにはいきませんでしたが、手前に写る人道橋も形は違いますが存在しています
やがて列車は川棚町を通過します。
ここには戦時中爆発的に人口増加のもととなった川棚海軍工廠がありました。
線路脇にはその煉瓦遺構が見えます。
そしてその先、川棚町小串郷及び新谷郷には海軍特攻艇(震洋)及び人間魚雷訓練所がありました。
特攻関係は軍事機密で、親族にさえその存在は極秘でしたから、ここで訓練を受けていた多くの若者たちは当時どのような思いで列車をながめていたでしょうか。
列車の横には「ハウステンボス」と書かれたハウステンボス号が走っています。列車は間もなく南風崎(はえのさき)駅に到着します。
現在の南風崎駅はほとんど乗降客もいない静かな駅となっていますが、この南風崎駅は大陸や外地から終戦後引き揚げた方々にとっては忘れられない駅です。
案内板にある通り、この駅は終戦後、大陸や外地から引き揚げ、厚生省佐世保引揚援護局の検疫所が置かれた浦頭(うらがしら)埠頭(針尾島)に上陸した139万人あまりの人びとがそれぞれの故郷に向けて旅立っていった思い出の地なのです。
ホームに立つと、ハウステンボス前にあるホテルが見えています。当時、ハウステンボスのある場所に厚生省佐世保引揚援護局の本所が置かれた針尾海兵団があり、浦頭に上陸した引揚者たちはその場所まで歩き、さらにこの南風崎駅へ向かったというわけです。
針尾海兵団から南風崎駅を目指す人びとの長い列です。
ホームで列車を待つ人々。
列車は故郷へ確実に近づけてくれるもので、その姿は安堵と希望そのものであったことでしょう。
ごった返していた車内も望郷の念で満ち溢れていたことでしょう。
そんな人たちを開業当時から見つめてきたのが、長崎県で最も古い歴史を持つ(明治30年建築)の早岐駅、駅舎でした。(現在は取り壊されています)
現在は新駅に建て替えられていますが、旧駅舎は木造二階建て(一部)の切妻屋根で中央部を待合室として正面右に事務室、駅長室、休憩室があり、駅長室上の2階にも休憩室がありました。
待合室は上部から側光を取り込む為明るく、格縁天井が張られ、花びら型のシャンデリアが取り付けられていました。
改札口には柱頭飾りがありました。
外壁は箱目地堅羽目板仕上げで、窓は上げ下げ窓、画像のようにマントルピースらしい部分が残るなど、明治後期の洋風駅舎の建築的特長をよく表していました。
訪れたこの時は、待合室の一角でミニチュア鉄道展が開かれていました。これは駅舎保存を望む市民の方が行っているものでした。
写真は早岐駅に縁の深かった列車編成の再現だそうです。
車輌基地であった早岐機関区の様子を図面をもとにして再現したものだそうです。今となっては大変貴重なジオラマですね。
炭鉱地帯であった佐世保、北松の石炭を運び、またその石炭で黒煙を上げながら力強く走っていた蒸気機関車とそれらを支えた鉄道マンの活動の様子が見事に再現されています。
産業構造物の資料としても大変わかりやすいものです。製作者の方の熱意が伝わってきました。
跨線橋も大正期に古レールを用いて建設された貴重なものでしたが、こちらは既に新しく生まれ変わっていました。
私鉄、九州鉄道時代の息吹を今に伝える貴重な遺産の数々が保存されることを願ってやみません。
「明治期に敷設された、鉄道人達の熱きスピリットと長崎の歴史を今に伝える貴重な遺産」であるJR大村線と長崎本線・旧線の旅にどうぞいらしてください。