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他人の皮膚は思ったよりずっと冷たかった(映画「ホテルローヤル」を観て)

コミュニケーションとは、言葉のみで成立しているわけではない。

例えば料理をつくり、他人に振る舞ったとする。相手が「美味しい!」と言ってくれたら、とても嬉しい気持ちになる。隠し味を仕込んでいたときに「これって、何の調味料が入ってるの?」なんて言われたら、さらに誇らしさが増すだろう。

相手の共感ポイントを探り、注意深く言葉を選ぶような言語コミュニケーションよりも、ずっと豊かな関係といえるのではないだろうか。

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映画「ホテルローヤル」は、釧路のラブホテルが舞台だ。

実際に、僕は釧路のラブホテルを訪ねたことはない。だが市街地から外れた国道沿いに、ひっそりと佇むラブホテルを想像することは難しくない。

市街地であっても喧騒が控えめな釧路にとって、外れにあるラブホテルは、静けさという言葉が不適当なほど物寂しいものだ。客は、何かから逃げたい、隠れたいと思って、人気のないラブホテルへと足を運ぶのだから、その物寂しさは理にかなっているともいえる。

そんなラブホテルで繰り広げられるセックスは、アパートの一室で行なわれるソレとは異なるはずだ。恋愛もあれば不倫もある。情熱もあれば打算もある。密室の中で、密かに法律が犯されていることもあるだろう。

ラブホテルのコミュニケーションは「ふつう」ではない。じっとりとこびりつくような、人々の思惑が色濃い。

映画「ホテルローヤル」には、普段感じることのない余情がそこかしこにある。それは舞台である釧路のラブホテルが大きく寄与しているように思う。不合理や不条理を背負う主人公・雅代(演・波瑠さん)の視点で、人々の余情が揺れ、ときに霧散していく様が丁寧に描かれている。

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桜木紫乃さん原作『ホテルローヤル』は第149回直木賞の受賞作品だ。

映画はひとつの物語になっているが、原作は7編の短編によって構成されている。実は桜木さんの実家はラブホテルを経営しており、桜木さん自身も15〜24歳まで家業の手伝いをしていたという。

劇中で雅代が「ラブホテル屋の娘」と揶揄されるシーンがあるが、それは桜木さん自身も経験したようで。私小説とまではいかないが、フィクションには彼女のリアリティがふんだんに詰め込まれているようだ。

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物語の構成が、原作と映画で異なるように、登場人物などの設定も大きく改変されている。

映画での雅代は、もともと芸術大学を志望していたが、不合格になってしまう。夢破れて家業に入ることになったという設定だが、原作は特に意思なく生きている女性として描かれている。

この差異はかなり大きい。

というか原作は雅代が主人公というわけではない。だから映画化するにあたって、スタッフが雅代という人物を一から再構築(あるいは創造)する必要があった。

・夢に破れて家業のラブホテルを継いだ
・でも仕事は真面目に取り組む
・絵を描くののが好き
・両親とはそりが合わない
・セックスには興味を持てない
・アダルトグッズ販売店の宮川(演・松山ケンイチさん)に好意を抱いている
・口数は少なく、感情も表に出さない

のような感じ。

筋は通っているが、原作で描かれている雅代の「みじめさ」のようなものは薄まってしまったように感じた。

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「みじめさ」が薄まってしまったことで、物語終盤の相違を招いてしまっている。

ホテルローヤルを閉じて、新たに人生をスタートする雅代。けじめをつけるために、雅代は宮川に対してセックスの誘いを持ち掛ける。身体を重ねてキスをするものの、妻の姿が脳裏によぎった宮川は、性行為の直前で「すみません」と断る。なかなか印象的なシーンだ。

原作でも同じシーンがある。

ふき出しそうになるのを堪え、雅代はTシャツを脱いだ。ブラジャーを外し、ジーンズも脱ぐ。へそまで隠れる肌色のショーツは残した。
「えっち屋さんもいろいろあるだろうけど、ホテル屋もいろいろあったんだ。御法度を突き破って、すっきりここをでて行きたいんです。お願いします」

(桜木紫乃(2015)『ホテルローヤル』集英社文庫、P83より引用)

一方映画では、波瑠さんはいわゆるキャミソール型の下着をつけている。つまり波瑠さんは上半身を露出していないのだが、すべての過程において下着をつけたままで終始することになる。

別に「脱げよ」と言いたいわけではない。

事務所サイドからNGが出ていたのかもしれない。そもそも演出側が裸になることにこだわらなかったのかもしれない。真相は定かではないが、そもそも脱ごうと脱ぐまいと原作者の世界観は表現できる気もしている。

だが結論からいうと、原作の世界観は、映像の中で再現できていない。

原作は、このように描かれている。

「バカだな、こんなところで死ぬなんて」
意を決して男の腕に手を伸ばした。
ベッドに仰向けになる。天井の隅に何か光っている。蜘蛛の糸だ。いつもいつだって、清掃中は絨毯に落ちた髪の毛や陰毛や紙くず、煙草の穴ばかり気にして天井など滅多に見たこともなかった。
「非日常か」
雅代のつぶやきを宮川の体が覆った。男の体の重みなど、覚えていない。他人の皮膚は思ったよりずっと冷たかった。唇はもっと冷たい。首筋から肩へと下りてゆく。胸の先へ届いていても、男の唇は温まらなかった。

(桜木紫乃(2015)『ホテルローヤル』集英社文庫、P85〜86より引用)

注目すべきは、「肌」ではなく、「皮膚」という言葉が使われていること。

日常会話では、だいたい「肌」という言葉が使われる。皮膚科にでも行かない限り、あるいは何か学術的な研究でもしていない限り、「皮膚」という言葉を使うことはないだろう。

それでも雅代は「皮膚が冷たかった」と感じたのだ。それは宮川という人物が(恋してようと、いなかろうと)他者に過ぎなかったと明確に意味している。いや、その相手が宮川であろうとなかろうと、雅代にとって、自分以外の人間は、動物のような存在なのだ。人間同士のセックスではなく、動物の交尾のような認識だったはずで。

それほど雅代は、人とのコミュニケーションに問題を抱えていた。

その、瞬間までは。

しかし直後、雅代に変化が生じる。

シーツの上にある彼の右手を腰のほうへと誘った。ためらいを更につよく引き寄せる。指先がへその下を滑り亀裂のそばへと近づいた。つよく目を瞑る。体の位置をずらす。シーツが体温を吸い込んでゆく。男の指先に意識を集中させると、全身が柔らかく変化する。
指先──。体がうねった。吐息に音が混じる。こんな、まさか──。

(桜木紫乃(2015)『ホテルローヤル』集英社文庫、P86より引用)

描かれていなかったというより、十分に描かれていなかったというべきか。

それまで丁寧に描かれていた余情が、「それっぽいもの」だったのでは?と疑ってしまうほど、何もかもが白々しく映ってしまった。

このシーンに費やされている時間は、もっと長くあるべきではなかったか。こんなにあっさりと、宮川との邂逅を描いてしまって良かったのか。

いわば「映画をつくる」側の都合。それが見えてしまった。興醒めしたといっていい。

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完璧に再現しろといっているわけではない。

監督を務めた武正晴さんが感じた「皮膚」の解釈を、僕は見届けたかったのだ。それは原作を読んだ人間の「わがまま」だろうか。

ちなみに公式サイトのインタビュー記事によると、武さんは「普段小説はあまり読まない」らしい。だとすれば、この部分は単純な読み落としというか、それほど重要な箇所と認定されなかった可能性が高い。

少しだけ、いや、猛烈に残念である。

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(Amazon Prime Videoで観ました)

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ほりそう / 堀 聡太
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