「テクノロジーは何も幸福を生み出していない」という仮説に対して
アーキテクトデザイナーの阿部雅世さんと、グラフィックデザイナーの原研哉さんの対談集『なぜデザインなのか。』がとても面白かった。
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本エントリのタイトルにも引用した「テクノロジーは何も幸福を生み出していない」というのは、原さんの発言(仮説)だ。
誤解を招いてしまうので、やや長いが前後のテキストも併せて紹介する。
僕は逆にね、いつも反芻している仮説があるんです。それは「テクノロジーは何も幸福を生み出していないのではないか」という問いのようなものです。もしも産業革命のようなものがなく、自分の行動範囲がすごく限定されていたとしても、自分が一生の中で生み出すロマンチックなものの総量は変わらないかもしれないと考えてみる。これだけテクノロジーが発達して、その恩恵にあずかりながら生み出した最終成果物が、そうじゃない状況の自分のそれと比べてみた時に、よりよいものがさらに加わっているかどうか。
僕らがこの世に生まれてから、飛行機の移動速度はあまり変わらないけれど、通信速度はものすごく変わりましたよね。だから僕は遠くに行っても毎晩スタッフとメールで話ができるわけです。しかしこれがなくても、ファックスを使ってコミュニケーションははかれる。場合によってはその方が効果が上がるかもしれない。さらにファックスがなければ、電話代は高いから話をしない。そこにはコミュニケーションの断絶が起こる。だけどそれがネガティヴなだけの状況かどうか。旅というのは、意図的なコミュニケーションの断絶でもあるわけだから、そこにはポジティヴなものもあるはずです。そういうプラスマイナスをトータルに考えた時、全体の幸福や創造性が増加したかどうかを、時々は考えておきたいんです。感覚にできたひずみの皺を伸ばすみたいに。
(阿部雅世、原研哉『なぜデザインなのか。』P241より引用、太字は私)
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繰り返しになるが、原さん自身も「ことわり」を入れている通り、上記はあくまで「仮説」である。しかし邪推と知りながら、僕はこの発言に、原さんの批評精神をつい想像してしまう。
それは、
あまりに多くの人たちが「テクノロジーの発達が僕らの幸福に寄与する」と盲信しているのではないか。
という社会に対する警句だ。そんな風に僕は解釈してしまう。
IT業界に片足を踏み入れている僕も「個別の効率が高まることは本当に幸せなのか」を、常に自戒を込めつつ自問しないといけない。
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だが、いくら自問したところで、せいぜい答えは限定的かつ抽象的なものにしかならない。デザインという領域で時代を創造している原さんの壮大な仮説に、どうあがいても対峙できない。
だが思考のヒントは、先日行なわれた龍崎翔子さんと原研哉さんのオンライントークイベントにあった。
「VISUALIZEとは何か」
「物事の本質をどのように突き詰めるのか」
という参加者からの質問に対して、龍崎さんは「比較してみてはどうか」と提案した。
有料イベントのため詳述は避けるが、龍崎さんは「熱海と湯河原は電車で5分ほどの距離なのに、なぜ違いがあるのか」を具体例に挙げて話した。
どちらが秀でているか、ではない。
静岡県と神奈川県という地理上の分類も、本質とは無関係だ。
二つを比較すると、熱海の方がかなり「観光地化」されている。熱海には観光客が必ず訪ねる商店街もあるし、徒歩圏内で様々な見所もある。一方で湯河原はある意味「不便」だ。随所に見所はあるものの、分散されて立地しておりアクセスしづらい。ソリューションを検討する前に、そもそもなぜそういった違いがあるのかを紐解くことが大切だ。違いは、それぞれの歴史や特性を比較することで、その違いの本質が見えてくる……という話。
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テクノロジーの話にこじつけると、例えば「インターネットのなかった世界」と比較してみるとどうだろうか。
5年ほど前に、以下のイメージが話題になった。
(Yahoo! BBのキャンペーンで使われていたものだと記憶しています)
郵送やファックスはメールやチャットに代わり、電卓はExcelやNumbers、Google Spreadsheetに代わり、紙の文書はWordやPowerPointに代わった。
だが機能という側面で見ると、ベーシックな部分は何ら変わっていない。伝達や計算手段が代わり性能も向上したが、やりたいことは同じだ。このままでは昭和と令和の本質的な差異の説明には至らない。
でも「何か」違うような気がする。「何か」とは何だろうか。
抽象的な私見だが、もしかしたら価値観みたいなものは変わったかもしれない。
このイメージには、女性が一人しか映っていない。しかもお茶汲みだ。令和になり、地域差はあれど、さすがにこの風景はマジョリティではないはずだ。
「価値観みたいなものは変わったかもしれない」というのが正解だったとして。では、その変化に、どれほどテクノロジーが影響を及ぼしただろうか。因果関係を単純化することはできないし、事情は複雑に絡んでいるのが事実だろう。だとしても。
この先の未来を見据えていく上で「比較してみてはどうか」というプロポーザルは有効だろう。
過去と現在 / 現在と未来という時間軸だけでなく、比較のレイヤーは幾重にも及ぶ。
粘り強く、xとyに様々な変数を代入してみよう。たくさんの思考実験を繰り返す。
僕はいつか、原さんのように「強い実感を持てる自分なりの仮説」を手にしたい。