もしものせかい
息子が好きな絵本作家・ヨシタケシンスケさん。
最近購入した『もしものせかい』は、ヨシタケさんにしては珍しく笑いの要素が一切なかった。
息子と一緒に読みながらも、最初は驚いたし、この本を息子が好きになってくれるのかとても気になった。「よく分からないね」なんて言われて、絵本が嫌いになったらどうしようと気を揉んだが、幸いなことに、毎日のように「読んで」とせがまれている。
もしものせかいは、
きみがくらしている
いつものせかいではなく、
きみのこころのなかにある
もうひとつのせかいだよ。
(ヨシタケシンスケ『もしものせかい』より引用)
きみが どうしても
できなかったことや、
ずっといっしょにいたかったひとや
かわってほしくなかったもの。
きみのめのまえからきえてしまって、
「もしも あのとき…」って
おもいだすもの。
それは、みんな もしものせかいに
いるんだ。
(ヨシタケシンスケ『もしものせかい』より引用)
正直なところ、宗教っぽいなと思った。
おそらく僕は、宗教というものに対して、それなりに距離を置いているのだと思う。「可能性」という良くも悪くもモチーフにしやすいものを「もしも」という言葉で括るのはやや安直で、しかもそれを死後や仮想という世界観と結び付けている。
メンタルが弱っていたり、傷ついている人の「逃げ場」として利用される常套手段ではないか?という穿った見方もできてしまう。
*
*
だけどヨシタケさんは、「もしものせかい」だけに留まることをよしとしない。
そして、もしものせかいが
おおきいひとで あればあるほど、
いつものせかいも おおきく
ふくらませることが
できるはずなんだ。
(ヨシタケシンスケ『もしものせかい』より引用)
なぜなら、
もしものせかいは、
きみだけの、きみのための
エネルギーのかたまりだから。
(ヨシタケシンスケ『もしものせかい』より引用)
「もしものせかい」と「いつものせかい」。
現実もしっかりと見据えた上で、「もしものせかい」が役割を果たす。
絵本では描かれていないけれど、「もしも」に閉じ込めたのは悲しみだけでなく、痛み、苦しみ、憤り、怒り、憎しみなどのネガティブな感情も含まれるはずだ。
頭に浮かぶことを紙に書き出す「ジャーナリング」という手法があるが、試してみると、自分や周囲に対してモヤモヤとした思いがするすると表出するのが分かる。決して他人には見せられない、プライベートな感情だ。
*
ヨシタケさんは、ネガティブな感情を「残す」「留める」ことも必要だと言っている気がする。
それが、人生を確かに前進させる、胆力に繋がるはずだと。
じわじわと足場が固まることは悪くない。機動力は多少失うかもしれないけれど、未来をきっと豊かにする土壌なんだ。
たのしく、たのしく、していこう。
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