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一生、フィクションの中で微睡んでいたらいい(映画「PERFECT DAYS」を観て)

ひとことでいうと、「大金を叩いてつくっただけの映画」ではないだろうか。

「PERFECT DAYS」
(監督:ヴィム・ヴェンダース、2023年)

ユニクロ、TOTO、ローソン、渋谷区。

スポンサーに名を連ねるこれらの企業(団体)は、日本で知らぬ人がいない。そんな背景のもとで、古いアパートで慎ましい生活をおくる「平山」という人物をつくりあげたことに、どんな意義があったんだろう。

別に富めるものたちが、貧しい人たちに触れるのがダメだというわけではない。しかし、だいたいにおいて微笑みを浮かべている平山だが、現状に足る心理状態でいられるに至ったのかを本作では描いていない。

平山は、だって平山じゃん
そういう人だって、中にはいるよね

そう言われたら話にはならないのだけれど、本作はフィクションである。フィクションなら作り手がいるわけで、ヴィム・ヴェンダースや高崎卓馬は、「平山」という人間をなぜ描こうと思ったのかを説明しなければいけなかったと思う。(ちなみに同僚のタカシが会社を突然辞め、代わりの清掃員がいなくなったときだけ平山は声を荒げる。それまで社会の様々な理不尽に対して受容し続けてきた平山が、なぜあのシーンだけ声を荒げたのだろうか。さっぱり理解できなかった)

自分の周囲に線を引いて、ルーティンで日々を送れたら。

そんな理想を掲げ、人々は「やさしい生活」を目標としがちだ。何かを達成できなくても構わない。野心を抱かず、特定の政治信条や宗教を持たず、穏やかな心で生活できたら良いよね、と。

実際、平山はそんな「やさしい生活」をしている。

朝起きて、車に乗って、カセットテープで好きな音楽を聴いて、仕事をこなし、開店直後の銭湯で身を清め、行きつけの居酒屋でご飯を食べ、本を読んで微睡の中で眠る。彼はフィクションを好んだが、平山そのものがフィクションの中で微睡んでいるよう感じた。

百歩譲って、そういった人間もありだとしよう。(あり・なしかで言われたらもちろん「あり」なんだけど、フィクションとして「あり」が成立するかどうかは疑問である。という意味です)

でも、そんな人物を、2023年において主人公に据えて映画化する意味とは何だろうか。

国際情勢には不安しか感じない。国内の政治は汚いことでいっぱいだし、みんなが盛り上がった東京オリパラだって汚職にまみれていた。でもさ、そんなことは所詮他人事じゃないか、ルーティンを守って心穏やかに生きていくのが「幸せ」ってことなんじゃないの?

こんな安直なメッセージではないけれど、もしそういった意図があったとしたら、「PERFECT DAYS」という映画に価値はない。

対話を拒み、トイレを美しいものとして描き、70〜80年代の音楽をカセットテープで聴く。ガラケーを所有し、Spotifyという言葉さえ知らない平山という人物は、そうかそれは、ある意味で日本人の特性の縮図なのかもしれない。

村上春樹は、ルーティンを守って生活したい人物を描写しがちだ。しかしだいたいにおいて、登場人物はカオスな物語に呑み込まれ、望まない対話を繰り返し、別の地平へと「僕」を誘っていく。そこにフィクションとしての醍醐味があるから、村上春樹は多くの読者に支持されるのだろう。

平山はどうなの?
この映画に関わったスタッフは、この映画が「最高だ」って本当に思ってるの?

だったら現実から目を背け、一生フィクションの中で生き続ければいい。「君たちはどう生きるか」の大叔父のように。

──

散々酷く書いてしまいました。

逆説的ですが、でもぜひ映画館で観てほしい作品ではあります。自らの審美眼が問われる作品です。僕たちはなぜ映画を観るのだろう、と。

リンクを貼っておいてなんですが、ウェブサイトも超見づらいです。これは平山がみたら悲しむんじゃないかな。(平山はインターネットなんて使わないか)

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ほりそう / 堀 聡太
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