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昭和と勝ち負け(沢木耕太郎『敗れざる者たち』を読んで)

昭和59年8月23日が、僕の生年月日だ。

最近は西暦表記のところが多いけれど、和暦で生年月日を記載するところもそれなりにある。

昔はあまり意識することはなかった。だが社会人になり、年下の友人や同僚も増えていくにつれ、自分の生まれた年が「昭和」として刻まれていることを(否応なく)自覚するようになった。

とは言え、僕が、「僕という人間」であることを自覚しながら暮らしていたのは「平成」だ。物心ついたときには既に平成になっていて、あらゆる喜怒哀楽の経験は平成で積んできている。

──

沢木耕太郎さんの『敗れざる者たち』は、昭和のアスリートの話だ。

おそらく当時、アスリートという言葉は一般的でない。本書でも「アスリート」という言葉は使われておらず、ボクサー、長距離ランナー、野球選手、ダービー馬といった形で、登場人物は語れている。

ささやかな違いだが、濃厚に、「昭和」という時代の臭いが漂っている。

匂い、ではなく、臭い。

本書は、タイトルの通り敗者が主人公だ。

血の滲むような努力や、
スポーツ以外の生活を切り捨てたという意地、
全てのライバルを蹴落とそうという執念。

自身の身体や精神を切り刻むように進んだ過程で、その切れ端が、哀愁としての臭いを漂わせているのかもしれない。

*

沢木さんは「あとがき」で以下のように語っている。

ヘミングウェイの『男だけの世界』という短篇集に、闘牛士を描いた作品がある。盛りを過ぎてしまった闘牛士が、やっと手に入れた前座試合の機会に、牛に嘲弄され、腹を突き破られてしまう。この「敗れていく男」の物語に、ヘミングウェイは“The Undefeated”(敗れざる者たち)という題を与えた。それが彼の「勝負の世界」に対する美学だったのだ。ぼくが、この本を『敗れざる者たち』としたのも、ここで描いた主人公たちに“The Undefeated”を見たからである。
ぼくが望んだのは、恐らくは戴冠式だった。無人の競技場で、敗れていく者たちのただ一度だけの戴冠式を、この手で行ないたかったのだ。月桂を冠するためではなく、敗者をして真に敗れせしむるために……。
(沢木耕太郎『敗れざる者たち』P287より引用、太字は私)

敗者の物語から、僕らは何かを学べるのだろうか。

世の中を見てみると、誰もが勝者の話を聴きたいと思っているように見える。勝利者インタビュー、勝利者の記事、勝利者の笑顔や肉声、勝利者の記録や栄光までのプロセス。

セルティックに所属していた中村俊輔さんが、チャンピオンズリーグでマンチェスター・ユナイテッド相手に見せた(魅せた)フリーキックは、15年近く経った今でも伝説だ。だけど彼がリーガ・エスパニョーラで活躍できなかったことはあまり語られていない。

今では、敗者のことを「敗者」と表現することもデリカシーがないことだと非難されることがある。なるべく敗者の傷をえぐるようなことはせず、そっとしてあげることが優しさだとも。そのこと自体は否定しない。

けれど、敗者が何を考え、何を得たのかを知りたいと思うことは、アンタッチャブルなことなのだろうか。観点を変えれば、僕らは始終Loserなはずで、彼らが負けをどのように受け止めたのかを率直に尋ねることは意義があると思うのだ。

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野球選手の菊池雄星さんは、本書を「自分を作った書籍」の一つとして挙げている。「本書がなければ、メジャーリーグに行くことはなかったかもしれない」と話している。

菊池さんは成績が低迷していた2014年のシーズンオフに本書を読み、読み終えた翌日にMLB行きのチケットを取ったという。高校時代にメジャーリーガーになることを夢として掲げていた菊池さんが「野球選手として燃え尽きるか、燃え尽きないか。このままでは燃え尽きないままで終わってしまう」と強烈に危機感を覚え、半ば衝動的に行動に移したのである。

野球による勝ち負けは、投手と打者の攻防であり、1点を巡る攻守の駆け引きであり、チームの勝敗であるとされる。それは間違っていないけれど、菊池さんを駆り立てたのは、もしかしたら「自分への勝負」ということなのかもしれない。

自分に勝てるか。
自分に納得いくまで野球に打ち込むことができるか。

平成3年生まれの菊池さんが本書を通じて学んだこと(感じたこと)は、そういったことだ。

素晴らしい本には、いつの時代も古びない普遍性がある。昭和の価値観と切り捨てず、本書からあなたなりの普遍性を見出してほしい。

*

沢木さんは本書を以下の言葉で締めている。

いま、無人の競技場にボクサーが、ランナーが、バッターが、サラブレッドが、騎手が佇む。あなたには、彼らの曳く長い影が、はたして見えるだろうか。
(沢木耕太郎『敗れざる者たち』P288より引用)

僕たちは、もう一つ問われているかもしれない。

「はたして見ようとしているだろうか」と。

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本書は読書ラジオ「本屋になれなかった僕は」でも紹介しています。お手すきの際に聴いていただけると嬉しいです。


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堀聡太
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