社会の分断、それでも群衆を笑ってはいけない(100分de名著:ル・ボン『群集心理』)
コロナ禍で「分断」という言葉をよく耳にするようになった。
もともと所得格差、ヘイト、政治思想に関する「差異」はあった。アメリカをはじめ世界では、人種や移民政策の是非を巡っての「相違」が分断を招いていた。
(幸か不幸か)日本は少しだけ分断の顕在化が遅れていたように思う。エビデンスはなく、あくまで僕の所感に過ぎないのだが、2010年代の日本では、分断を感じている機会は少なかった印象だ。安倍さんが長期的に日本のリーダーを務め、(良くも悪くも)現状維持が続いていたように「見え」た。価値観はそれなりに多様になっていたものの、互いの生活を侵食するような深刻な状況には陥っていなかった。
それが未曾有のコロナ禍に突入する。
2021年の東京都は9割ほどが緊急事態(またはそれに近い状況)になってしまった。1年半にわたり生活や仕事における自由度が損なわれる状況が続く。マスク着用を巡っての議論はさほどでもなかったが(一部、良識に欠ける著名人が問題を起こしていたが)、自粛要請に関するスタンスは各々の事情や価値観によって異なり、結果として分断が加速してしまう。双方を埋めるような「調整」は徒労に終わり、未だに解決の気配すらない。政治家はその事実に目を背け、あろうことか分断を煽るような言動を繰り返す。(一部を除く)多くの個人の良識によって保たれた秩序さえも否定し、ロックダウンや緊急事態条項をチラつかせるなど、自由が損なわれる深刻な事態へと進んでいるように思えるのだが、これは悲観的な見方だろうか。
驚くことに、明らかな政府の失政に対して「菅さんは頑張ってるのにメディアは悪いところばかり報じている」「野党は批判ばかりで何もやっていない」といった政権擁護の声も少なくない。
「驚くことに」と書いた。
僕は、本当に驚いているのだ。
菅さんの親類であれば擁護したい気持ちは分かるけれど、この状況下で菅さんのSNS投稿に対して労いの声をコメントしていた。政権へ批判的な投稿をしている人たちに対する誹謗中傷も散見される。
これはいったい何だろう。頭を抱えた。
異なる立場の人たちが、それぞれの利害を巡って攻防を(いや防御はなく、一方的な攻撃だけだ)繰り返している。その結果として起こっているのが「分断」だとしたら。それぞれが不毛なファイトを止める以外に道はないのだろうか。
──
1895年に書かれたル・ボン『群集心理』は、当時のフランスにおける市民革命や産業革命が下敷きになっている。NHK「100分de名著」で解説を務めた武田砂鉄さんは、NHKテキストの中で以下のように紹介している。
一般市民という「群衆」が急速に存在感を増しており、王侯貴族ではなく、群衆が歴史を動かすようになったとル・ボンは指摘します。そんな時代に、群衆とは何か、それはいかに形成され、どのような特質・心理・行動様式をもっているのかを解明したのが『群集心理』です。この本では、群衆を統制・操縦しようとする指導者の手口も明快に分析されています。
(解説・武田砂鉄(2021)「100分de名著 2021年9月 ル・ボン『群集心理』」、NHKテキスト、P4〜5より引用、太字は私)
「群衆を思いのままに操る裏ノウハウ本」としてヒトラーも読んだという本書。「(群衆は)暗示を受けやすく、物事を軽々しく信じる性質をもつ」というル・ボンの見解を、ヒトラーが認め、歴史の中で証明してしまった。
それに加えて、為政者にとって都合の良い傾向もある。「群衆は、権力に極めて弱い」ということだ。
群衆は、弱い権力には常に反抗しようとしているが、強い権力の前では卑屈に屈服する。権力の作用か、あるいは強くあるいは弱く働く間歇的なものであるときには、常にその極端な感情のままに従う群衆は、無政府状態から隷属状態へ、隷属状態から無政府状態へと交互に移行するのである。
(ル・ボン(1895)『群集心理』、学術文庫、P66より引用、太字は私)
SNSでしばしば見られる加害者擁護は、まさにこの傾向により生じる悪癖ではないだろうか。被害者に対して「それはあなたも悪いよ」「女性はいくらでも嘘をつく」など二次被害を招く言説も未だになされる。
正義を押し付ける行為が形を変えてしまったものだと思っていた。しかし結局は、「弱さ」へと群がるような醜悪さだったのだ。
*
群衆は「単純化を好む傾向にある」という。
思想は、極めて単純な形式をおびたのちでなければ、群衆に受けいれられないのであるから、思想が一般に流布するようになるには、しばしば最も徹底的な変貌を受けねばならないのである。(中略)このへんんかは、特に、その群衆の属する種族如何によるのであるが、常に縮小化、単純化の傾向を持つ点では変りないのである。
(ル・ボン(1895)『群集心理』、学術文庫、P77より引用、太字は私)
武田さんはビジネスパーソン向けに要約サービスが流行している事例を挙げている。
通読に数時間かかる本を、たった5〜10分で内容が分かるというサービスだ。枝葉が運営社によって削られ、大意のみが抜粋される。確かにそれで「分かったつもり」になるだろうが、作者がディテールまで含めて重ねた労力は伝わらない。必然的に、誤解・曲解されて伝わることも多くなる。
これくらいであれば社会にとっては「害がない」ように思える。しかしこういったことが当たり前になり、人間の思考体力をじわじわと低下させていくことになるとしたら恐ろしい。
思考体力がなくなれば、権力者の嘘に鈍感になってしまう。
政治家は群衆の支持を得るために、なるべくシンプルなメッセージを心掛ける。選挙公約はその最たるもので「実現するように頑張ります」ではなく「実現します!」と言い切る。公約が実現したかどうかは有権者に問われず、次の選挙では未来の課題に向けての解決に躍起になる。その繰り返しで、ガタガタの行政を招いてしまっている。
「議論は尽くした」と繰り返される。何度も何度も政治家が繰り返すことによって「議論は尽くされたという印象」が流布していく。
「経済のためにはアベノミクスが有効だ」というメッセージも同様だ。アベノミクスの中身も吟味せず、ただひたすらアベノミクスという言葉だけが一人歩きする。あげくメディアからも「あなたはアベノミクスを支持しますか?」と支持・不支持のみを問われる。本当であればその中のグラデーションに位置するのに、分かりやすく二分されるような立場に立たされる。当然そこに、想いのこもったロジックはない。
ほぼ日の糸井重里さんが昨年書いたエッセイが批判された。
「物事を単純に捉えたい、複雑なことはなるべく考えたくはない」という思考体力が低下した社会を端的に表しており(それが的を得ているからこそ)、警戒する人々によって問題提起された形だろう。
糸井重里さんのことは好きだが、この件に関しては、僕も問題提起していた人たちのことを支持したい。
思考体力が低下してしまった人々は、先天的に「弱い」人たちではない。むしろケアが必要な人たちだ。
諦めたくはない。痛みを正面から受け入れながら、何とか希望を自分たちの手で拾い上げていきたいのだ。
──
ここまで『群集心理』について書いてきた。
人間の愚かしい性質と読めたのならば、それは僕の筆力不足だ。僕は人間が愚かしいから群衆化したのではないと思っている。確かに知性や理性が欠如している側面はあるだろうが、人間は愚かではなく、ただ弱く未熟な存在なだけだと僕は思っている。
弱いよりは強い方が良い。未熟よりは成熟している方が良い。
そんな気がするけれど、生物というのは古来から、強いものが生き残っているわけではないという事実がある。
人間よりも圧倒的に強いトラは絶滅の危機に瀕している。生物は強さでなく、変化に対応できるかどうかが生き残る秘訣だとダーウィンも説いている。なので群衆の弱さや未成熟は一概に否定するものではなく、人間が生き抜くための秘訣でもあるように思うのだ。
それに、と僕は思う。
「群衆とは愚かな者だ」と笑う人がいるとしたら、それはまた別個の群集心理に囚われていると言えるだろう。そんなに単純に割り切れる話ではない。
権力者や、マジョリティの作り出す気配における自衛の手段として、『群集心理』は役に立つだろう。偏屈なドメインに陥らず、オープンかつ健全な批評精神を持ち続けること。ル・ボンが指摘した処方箋は、今なお普遍の万能薬として機能し続けている。
──
*おまけ*
100分de名著 ル・ボン『群集心理』の感想を、読書ラジオ「本屋になれなかった僕が」で配信しています。お時間あれば聴いてみてください。
■Spotify
■Apple Podcast
■Google Podcast