VIVA! コンプレックス。とは言わないけれど(武田砂鉄『コンプレックス文化論』を読んで)
コンプレックスとは厄介だ。
他人から「気にしすぎでは?」と言われても、何ら解消されるものではない。
僕自身、様々なコンプレックスを抱えていた。ざっと数えるだけで、あっという間に両指が折れてしまう。
モテない
比較的小柄だった
短距離走が苦手
垂れ目
両親をパパ・ママと呼んでいた
まじめ
声が高い
外反母趾
胡座をかけない
いずれも、今ではすっかり解消されている。
だけど、20代前半まではかなり苦しんだものもある。世の中の理不尽さ、いかんとも改善できない物事についてアレコレ思い悩んでいた。それを誰かに相談することもできなかったから、余計に苦しんでいたのだろう。(だから同じようにコンプレックスを抱えている人には強く共感してしまう)
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武田砂鉄さんが著した『コンプレックス文化論』は、武田さん自身が「なんだかうまくいかない」というモヤモヤを抱えていた過去を省みつつ、「人に打ち明けられないコンプレックスは絶対に「甘い顔立ち」をしていない。コンプレックスが文化を形成してきたのではないかと仮説を立て、しつこく考察していくのがこの本だ」という並々ならぬ決意のもとで書かれている。
コンプレックスの多くは、先天的に付与されたものだ。それらを自らの努力で変えることは容易くない。環境による規定も、根強く残る。
今でこそ、コンプレックスに対する考え方は変わってきた。
しかし、そうでないものも残る。例えば下戸。下戸の人たちが飲み会で受ける苦痛は、与える側にはとんと無頓着なものだ。武田さんは以下のように指摘する。
他人のコンプレックスに無頓着な人と、いじめの加害者を同一で語るのは乱暴かもしれないが、その加害性を重く受け止めていない傾向にあるというのは共通しているだろう。
「え?そんなことで傷つくの?」
意地悪く「いじる」ことをしなくとも、コンプレックスに悩んでいることに対して意外な顔をする。これも状況によって加害的になる。
いじめは実際の暴力が行使されるので分かりやすい。しかし他人が内に秘めているコンプレックスは必ずしも可視化されておらず、分かりにくいものになっている。(なんせ内に秘められているのだから)
あとがきでは、こんな言葉でコンプレックスを軽視する人たちに警告している。
同感である。
プラス思考と、コンプレックスを矮小化する思考は似て非なるもの。
そもそもコンプレックスを感じるということは、自分自身の特徴や変化に敏感になるということだ。それが生産的な何かを生まなかったとしても、誰に文句を言わせることができようか。
コンプレックスと上手に付き合えなくても、解消できなくても、それはそれでOKなはず。それが文化となり、エネルギーに繋がり、そして人間同士の違いを許容し合うスタンスにも発展していくだろう。
VIVA! コンプレックス。
とは言わないけれど、その濃淡を受け入れる社会であってほしいと強く願いたい。コンプレックスがゼロになることは不可能だけど、絶望するくらい悩んでしまっている人が減ってほしいと思うのだ。
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ちなみに、上述したコンプレックスが解消されたきっかけを、僕は明確に憶えている。
僕のことを好きになってくれた女の子が、僕が吐露したコンプレックスのことを「え?本当にそれがコンプレックスなの?」と言ってくれたことだ。
同じようなことを言われたことはあるけれど、彼女が、心から驚きをもってそう伝えてくれたことが嬉しかった。
そうか、僕は、こんなことをコンプレックスに感じなくても良いんだ。
素直に開き直ることができた。
お互い結婚して、すっかり疎遠になってしまったけれど、彼女は元気でいるだろうか。なかなか会うわけにはいかないけれど、彼女に、いつかどこかでちゃんと御礼を言いたい。
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*おまけ*
武田砂鉄『コンプレックス文化論』の感想を、読書ラジオ「本屋になれなかった僕が」で配信しています。お時間あれば聴いてみてください。
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