映画「ルックバック」の美しいエンドロール
話題のアニメ映画「ルックバック」、ようやく観ることができました。
「ルックバック」
(監督:押山清高、2024年)
59分という上映時間ゆえに特別料金1,700円。レイトショーも会員デーも関係なく一律1,700円という、そこそこ強気な価格設定だが、王道ではないものの、編集やアングルの撮り方など、映画らしからぬショットの連続でとても面白かった。
原作がある多くのアニメーション映画は、
なるべく原作に忠実に沿う
原作を踏襲しつつ、映画監督の意思によって換骨奪胎つくりかえる
の、いずれかで撮られることが多い。「ルックバック」はそのどちらでもなかった。
「マンガ」というフォーマットを崩さずに映画として成立させる
そのつくりかたのもとで、なおかつ、いかに映画としても成立させるか。チャレンジした映画監督は私の知る限り、ひとりもいない。映画業界では極めて異例の描き方といえるのではないだろうか。素晴らしいアイデアであり、映画における革命でもある。
*
そのコンセプトは、とりわけエンドロールにも活かされている。
というか、このエンドロールを拝むだけで十分、映画料金のもとがとれるというものだ。
エンドロールは物語の進行のまま、すっと入っていく。「ああ終わりか」と思ったら、原作者の藤本タツキを筆頭に、マンガの関係者の名前が列挙されていく。そう、キャストの名前が出てこないのだ。
マンガの関係者の名前の後は、アニメのスタッフのクレジットが続く。映画に序列はないわけだが、このクレジットの仕方そのものが、「この作品において誰が重要なのか」を物語る構造になっている。
とはいえ、キャストを軽視しているわけではない。
エンドロールは夜明けから、朝、昼、夕方、そして真夜中へと少しずつ背景の「色」が変わっていく。この変化の中で、キャストは新しいフェーズ(役割)を担う者たちとしてクレジットされていると示唆している。
凝ったエンドロールは決して少なくないが、エンドロールを作り手へのリスペクトとして表現(創造)したのは、極めて珍しいことといえる。
実に見事でした。
エンドロールを味わうために、何度だって映画館に足を運びたい。これはたぶん、映画「ルックバック」を鑑賞した多くのファンに共通していえることのはずだ。