肯定も、否定もできないノマドという生き方(映画「ノマドランド」を観て)
そもそも他人の人生や生き方を肯定、否定するなんて意味不明な話だ。
だけど、映画「ノマドランド」を観て「果たして、旅するように自由を求めて生きて本当に幸せなのか?」という問いが浮かんできた。
日本では2010年前後に「ノマドワーカー」という言葉が注目されたことがある。それ以降、当たり前のようにカフェでは電源やWi-Fiが整備され、コワーキングスペースも矢継ぎ早に開かれた。2014年の株式会社キャスター創業からコロナ禍を経て、オンライン完結型の雇用が一気に加速していったように感じる。
ただ、本作で描かれる「ノマド」は、日本とは事情が異なる。
リーマンショックに端を発する世界金融危機の煽りを受けて多くの国民が職を失ってしまう。寄る辺としていた社会システムから外れ、自力で生きていく(いかざるを得ない)人たちが、結果としてノマドとなったという事情がある。(ノマドの人たちは「自ら選んで」ノマドになっていると発言している風もあるので、個人の自由とセーフティネットの在り方は非常に難しい問題だなと改めて気付いた)
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See you down the road.(いつかまた会おう)
結論から言うと、今、ノマドランドを観ることができて本当に良かった。
僕自身が、コンフォートゾーンを抜け出し、未知の旅へ向かおうとしていたタイミングだったからだ。
道に迷うだけならまだしも、混迷を極めて「元のコース」に戻れなくなるかもしれない。大きな後悔があるかもしれない。フランシス・マクドーマンドさん演じる主人公のファーンは、旅に後悔をせず、たくましく生き抜いている。
「See you down the road.(いつかまた会おう)」というメッセージに、旅を始めることの勇気をもらえたし、途上であることこそ人生であるという哲学的な視点にも共感できた。
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ハウスレスを貫くファーンに、人物的な「欠陥」は見当たらない。
単純作業しかないAmazon倉庫の現場、国立公園の清掃、ファストフードのキッチン、石(?)の積荷に明け暮れる仕事……。
臨時採用の教師を務めたことがあるファーンにとって、「誰にでもできる」季節労働の仕事はキツい。身体的に、そして精神的に。
僕なら思うだろう。
俺はなんでここにいるんだろう、と。
フィクションにありがちな設定として、主人公の性格に何かしらの「欠陥」を設けることがある。だがファーンに「欠陥」は見当たらない。同僚に挨拶をし、見知らぬ人に「調子はどう?」と聞けるコミュニケーション能力がある。
不景気における年齢や、突出したスキルや経験を持ち合わせていないことのディスアドバンテージ。
世間は冷ややかだが、「亡き夫の仕事を献身的に支える」という当時の事情や価値観が、結果的に彼女のキャリアを形作っていたわけで。ディスアドバンテージを彼女の責として押し付けるのは非情に思える。
彼女がもし恵まれた環境にいたら、同じような生き方をしただろうか。
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「思い出を引きずり過ぎたかもしれない」と、後悔は別物だ。
実際のところ、旅を続けるファーンは、自分の道は「正しいのか」「正しかったのか」を何度も自問している。
出会ったノマドに「思い出を引きずり過ぎたかもしれない」と胸の内を吐露するシーンは、自分のことのように感じてしまった。
今の職場に大きな不満はないが、
・最初の会社での仕事を続けていたら、もっと大きなプロジェクトに携われたかもしれない
・念願の教育業界での仕事を続けていたら、何年後かには、自分がやりたかったプロジェクトを任されていたかもしれない
そんな「かもしれない」を、僕は後悔と捉えることもあったからだ。
だけど、過去を回想する行為と、後悔は全く別のものだとファーンは気付く。良かった過去を「あの頃は楽しかった」と懐かしむのは自由だし、「かもしれない」未来を妄想するのは悪いことじゃない。それらと後悔は、世界線が違う。
後悔する自由もあるけれど、冷静になって、後悔して得られる果実を想像してみたい。後悔するとしたら、死ぬ間際だけで良いじゃないか。(どうせ死ぬんだから)
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旅とは人生のメタファーだ。
62歳のファーンにとって、この先、体力低下や金銭的な負担がますます深刻になっていくだろう。姉から借りた2,300ドルを返せる余裕もないし、(作品では描かれていないが)彼女にはコロナウィルスという逆境も待ち構えている。
それでも、彼女なら仲間と共に、助け合いながらしぶとく生き抜いていくはずだ。アメリカという国がかつてそうだったように、旅を通じて、彼女なりのフロンティアを開拓していくに違いない。
See you down the road.
僕も旅を続けていけば、いつかファーンに巡り会えるかもしれない。たくましく生きる、ノマドたちの生き方を胸に刻もう。
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