足並みを揃えていないと暮らしにくい田舎で、農業を営むという判断(高橋久美子『その農地、私が買います』を読んで)
まず、この本はめちゃくちゃ良かったです。
チャットモンチーでドラムを叩き、現在は作家として活躍している高橋久美子さんの「未だに答えは出ない」という葛藤が書かれています。
カジュアルさが8割、シリアルさが2割という読みやすさの中に、日本の縮図のような問題点がたくさん散りばめられていると感じました。
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事の発端は、父が田んぼを売ったこと
「久美子に言うたら面倒なことになる」と思われ、実家の田んぼのことを隠されていた高橋さん。
実家の愛媛県、田舎がメガソーラーで埋められつつあることに危機感をおぼえ、近所の田んぼを買い取って農業を始めることを思い立ちます。しかし(やはり、というべきか)父は否定的でした。
父の態度の真意は、後日談として語られるのですが、父の態度は逆に高橋さんに火をつけてしまいます。
農業未経験にも関わらず、仲間を見つけ、農業を営む知り合いに会いに行き、苗や種を譲ってもらってもらいます。
東京に住む高橋さんは「レギュレーションにより農地を買えない」という事実を前にするも、家族の協力も得ながら、サトウキビや春菊、ほうれん草などを育てていきます。
その試行錯誤を読むのは楽しく、農業が「すばらしい仕事」だということが伝わってきます。
突き動かされるのは、あくまで「自分」の思い
前述した通り、高橋さんが農業を始めたのは結果に過ぎません。
もともとは、地元に田んぼを残したいという高橋さんの個人的な思いだったのです。
個人的な思いだからこそ、強いんだなと感じます。
言い方を変えると「利己」で動いているとも言えます。ですが長年、実家で暮らしてきたからこそ高橋さんは、田舎の未来が想像できてしまうのでしょう。これはロクなことにならない。地元の良さが失われていくと。人口は減っていくけれど、それでも若い世代に地元らしい景観を残したいという思いです。
そういった意味で、高橋さんは利他的な動機によって動いていけたのだと感じました。
「次女の乱」という社会の目線
本書のサブタイトルに「次女の乱」と名付けたのは、高橋さんのとっておきの皮肉ではないかと思います。
歴史を振り返ると「〜〜の乱」と名付けられた戦いは、ことごとく敗者になっています。歴史とは勝者が作るもので、敗者は「勝者に楯突いた者」として見做される傾向にあります。
つまり社会(田舎)の観点から見たら、高橋さんが楯突いているということ。それを高橋さんは自覚しており、それでもなお、反逆者の立場で「自分の望む道」を貫こうとしているのです。
東京五輪によって住処を失った(立ち退きを余儀なくされた)、 都営霞ヶ丘アパートの高齢者と全く同じ構図です。
「この家に住み続けたい」ことがワガママとされ、自身の農業はおろか、もともと自営業として営んでいた農業も妨害されてしまいます。
この国で保障されている、基本的人権とはなんと儚いものなのでしょうか。しかしここに、日本の集団主義的な思想が根強く残っているのだと思います。高橋さんの怒りや葛藤は、日本の縮図とも言えるのです。
「あとがき」で綴った「未だに答えは出ない」という言葉は本心だと思います。
こういったケースは、当事者になって初めて気付くものです。当事者にならないと気付かず、日々は平穏に過ぎていきます。ですがアンテナを貼れば、日本中そこかしこで様々な対立構造的な紛争が発生していることに気付きます。
つぶさに見れば、誰が犠牲になっているのか共通点も見えてきます。
それは、いつだって弱い立場の人たちです。
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高橋さんが、高橋さんの家族が、当たり前のように安心して暮らせますように。陰ながら願っています。
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*おまけ*
高橋久美子『その農地、私が買います〜高橋さん家の次女の乱〜』の感想を、読書ラジオ「本屋になれなかった僕が」で配信しています。お時間あれば聴いてみてください。
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