「ディープな維新史」シリーズⅧ 維新小史❹ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭
紀藤閑之介の〈維新館〉論
宇部の維新館のことは、福原家臣として明治2(1869)年に生まれた紀藤閑之介が『米寿 紀藤閑之介翁』(「宇部人宇部に残る」)で語っていた。
「維新館で思い出したが、この維新という字は或いはここが初めて用いたのではないか、防長回天史に依って、誰か充分それを調査してもらい度い」
ちなみに紀藤閑之介は、悪徳商法やオウム真理教による被害者救済弁護士として有名な紀藤正樹さんの本家筋の祖先である。
すでに見たように、維新館が「源となつて明治維新の語が出来」たと、香川政一が『福原越後公を憶ふ』で語っていた。郷土史に通じた2人の有識者が、宇部の「維新館」が明治維新の言葉の源流だろうというのである。
確かにこれ以前に革命主義に彩られた「維新」の言葉は、長州藩では見当たらない。むろん全国にも類がない。維新の精神は、山口明倫館に代表される国学と洋学のミクスチャーで、伝統的な儒教と仏教を超克する革命精神であろう。
だが、そう語れば、幕末に「維新」の言葉を冠した例があると語る歴史愛好家がいるかもしれない。
長州藩内の被差別民だけを集めて結成した「維新団」という討幕部隊の存在である。
確かに「維新団規則」(山口県文書館蔵)の文書が慶応2(1866)年5月に出ている。
おそらく、そのころ命名された隊であろう。
これは吉田松陰門下の吉田稔麿が屠勇取立方(とゆうたいとりたてかた)となって立ち上げた奇抜な隊であった。 余談だが、「日本維新の会」なる政治結社が近年生まれたが、その暴力的な雰囲気が、妙に長州「維新団」に似ている気がして、うまい名を付けたものだと感心したことがある。 実は卒族出身の吉田栄太郎が屠勇取立方に抜擢されて名字帯刀を許され、士雇になった文久3(1863)年7月に、その祝いとして「稔麿」と命名したのが、後に靖国神社の初代宮司になる長州藩の招魂祭リーダーだった青山上総介(青山清)でもあったのだ。
祓いや清めの神道が差別を増長したというのが通説だが、幕末の長州藩では吉田稔麿を介していたとはいえ、神道が身分解放に動いていたことがわかる興味深い逸事である。
こうした流れに沿って、前掲の被差別者たちの「維新団」も結成されるわけである。
差別戒名など、差別を固定化してきた仏教を越える近代的平等意識と民主主義の精神が、実際には幕末の長州藩の神道、国学に内在していたことを見逃してはなるまい。
こうした近代性の萌芽を内包した神官・青山上総介の命名のもとで、吉田稔麿が既述のように被差別民の討幕隊を立ち上げ、文字通り維新革命に突入したことは、未だ伏せられた長州維新秘史である。
また、そんな「維新団規則」の慶応2年5月より2年以上前に、宇部の「維新館」は登場していたのでもある。
こうした史実を拾い集めても、宇部が「維新」という革命主義のルーツであったことは、ほぼ確かなことだといえる。
革命とは新たな秩序と価値の創造であり、そこへ向かう情念である。その激烈なエネルギーの製造には、被差別者のそれも大いに役立ったというわけである。
ちなみに歴史学者の田中彰は『長州藩と明治維新』で「維新団」の名称について「解放の願望が込められていた、と思われる」と書いている。
徳川幕府による強固なる身分秩序のなかで形成された被差別民に対する解放運動が、討幕の動きに合わせて表面化するのは、むしろ自然なことである。
長州藩は、270年にわたる徳川家のフィクションを、今でいえば「ファシズム」的な価値観を形成して、一気に乗り越えようとしていたのだ。
ファシズムは、既存の身分を超えて人々を束ねる政策だ。
実際、アンタッチャブルな人たちの隊名にするほど「維新」は過激な意味を持っていた。
その激烈な改革への意識は、毛利一門にとっても徳川支配体制からの脱却に直結する意識だったと考えられる。 こうしたエキセントリックなフレーズを冠して、元治元年4月に突如して「維新館」は福原家の学校名として輪郭を露わにし、そこで訓練を受けた家臣団を率いて2カ月後に福原越後は捨て身で京都に攻め上がり、皇居に大砲をぶっ放したのである。
これはまさに幕末のファシズム運動というべきものであった。
長州藩は徹底した合理主義のもとで、被差別民さえファシズム革命のエネルギーとして活用し、新たな時代を用意したのだ。
招魂社は、そんなファシズム革命の民主主義を体現していた。
ここでは誰でも平等に神になれるのだ。「長州」という枠組内での話ではあったが、しかし実際に人間の公平と正義が保証されたのである。
明治維新は、ナチの「Heil Hitler!」をはるかにさかのぼる長州藩の「Heil 毛利家の神霊!」だったのではあるまいか。