Nobuhisa Houraiya
私が、カメラのファインダー越しにみる一乗谷 朝倉氏遺跡を綴っています。
京の都からの北陸の玄関口、今庄宿。 古くから交通の要衝で、江戸時代に栄えた越前有数の宿場町。 のんびり歩きながら風情ある町を綴っています。
はじめまして!みなさま、はじめまして! 私は、蓬莱谷修久(Houraiya Nobuhisa)と申します。 よろしくお願いいたします。 noteでの投稿について 私は、真面目に撮影に向き合いはじめてから間がないので、自己満足な写真も多いかも知れませんが、恥を忍んで投稿していきます。 撮影で私が感じたこと、伝えたい思いをnoteに書き記すことで、福井の史跡、神社仏閣、自然の魅力を少しでもご紹介しつつ、自己成長や表現力を高めることにもつなげていければと考えています。文才も乏し
ここには、刀祢坂での織田軍との戦いで戦死した朝倉道景(童名:権ノ頭,朝倉彦四郎)16歳の屋敷があったとされる場所、権殿です。 武家屋敷跡にある梅花が見頃です。 朝倉始末記には、こんな風に記されているようです。 『朝倉彦四郎の首を提げて現れた犬間源三長吉に織田信長は、「哀れではないか。そちは生け捕ってくるならば忠節だが、少年の首を刎ねるとは、ものの哀れを知らぬただの木石だ。そちのような者とは今後対面はせぬ」と言い放ち彦四郎に哀れみをかけ、僧侶を請い
越前一乗谷の 黄楊の葉いっぱいに 白くて小さな 結晶たちが 舞い降りた。 濃緑な素肌は 煌びやかな 衣装をまとう。 朝日を浴びて 煌めく衣装で 見る者の心を奪うが 瞬く間に消えてゆく。 儚さ覚える 朝の霜。
古くから北陸の入り口だった今庄、 山中峠越えの万葉の道 木の芽峠越えの西近江路 栃ノ木峠越えの東近江路 全ての道が必ず今庄を通りました。 そして、そこには今庄の町を見下ろす愛宕山(標高270m)があり、山頂には燧ケ城址があります。 なぜここに築城されたのか、訪れてみて納得です。 本丸から町並と日野山を望む 築城は源平合戦の時代ととも言われていますが、交通の要衝にあったためかその後も様々な城主が立て籠もり戦ったようです。今でも曲輪や石垣、土塁、堀切などが残っていますね
北国街道 今庄宿 江戸時代に栄えた宿場町です 福井藩の御一行も 参勤交代の際に 宿泊しています そんな宿場町には 今でも 趣のある建物が並び タイムスリップしたような 感覚になります 男十里(約40km) 女九里(約36km) これは 昔の人が1日に歩いた距離 今庄宿は 現在の福井県庁から ちょうど40kmですね 今庄宿は 町割りや道幅などが 江戸時代から 変わっていないようです 江戸時代に建設された建物も 8棟も残っており 昭和30年以前に建てられた 建物も約160
なにもない ではなく なにも知らない自分 朝倉氏遺跡の 撮影を始めてから 少しずつ 知識を得て そこに埋もれている なにかを 感じ始める (南殿跡) まだ分からない ことだらけ 目に見える姿や これまでに得た わずかな知識から 勝手な想像を 膨らませる (中の御殿に向かう道) ただ 史実と異なる想像は 朝倉家にも申し訳ない だから もっと知りたい 知りたい そう思うのです そして この表現で良いのかと 心底悩むのです 史実を探し それを表現する このプロセスが
白雪舞うなか 家臣を集め 戦評定 厳粛な武士の姿 近寄りがたい 空気が漂いますね 朝倉氏遺跡で 1番古い庭園跡 湯殿跡庭園 向き合うには 覚悟がいります
一乗谷の豊かな水で 点てた茶でも いかがですかな 一乗谷には 周囲の山々から 沢山の水が流れ込んでいます 戦国大名 朝倉氏が 築き上げた城塞都市に なくてはならないものでした ただ 人が生きるために必要な水 昔から変わらず一乗谷にある水 そんなことで 朝倉氏遺跡では 水を撮ることが 多いです それだけです
栄華の跡 朝倉義景館跡の唐門 織田信長に三日三晩にわたり焼き尽くされた一乗谷。後に義景を弔うために建てられたとされる寺門が唐門です。 門には、朝倉家と豊臣家の2つの家紋が刻まれています。 居館跡にさす朝日が、朝倉家の権威と往時の栄華を偲ばせてくれますね。 初投稿なので、朝倉氏遺跡と言えば唐門と思われる方も多いので、あえてシンボルの写真にしました(笑)