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骨折29日目〜死にがいを求めて更なる考察〜

今朝起きた時、髪が頭に張りついているあの感覚がない‼️
めちゃくちゃ気持ちいいと感じられた骨折生活29日目です。

髪の毛ずっと触っていたい😁
まだサラサラ〜🥰

昨日の美容院、行けてホントに良かった〜🥰


先日
死にがいを求めて生きているの』の読書感想文を記事を書きました。

書いている途中で、もう少し深掘りしたい部分も少しあったのですが、言語化することが出来ないまま、記事を書き終えアップしました。


だけど、なんとなくモヤモヤする私。
なんだろう…。

モヤモヤしながらも私はこのモヤッと感をスルーしていました。


そんな中、そいさんが私の記事を読んでくださり、そこからさらに考察されて、記事を書いてくださいました。


そいさんの記事にはいつも共感する何かがあります。
私の根っこの部分に触れてくるんです。
「さすが、そいさん!」
「そそそ‼︎そういうこと私も書きたかったのよ!」
「よくぞ、その部分を言語化してくださった!」
「あぁ、思考の部分と体験談を上手く組み合わせて、わかりやすく説明してくれてる〜!痺れるぅ〜」

そんな思いがいつも湧きます。

あ、なんかわかりそう…。
だけど、イマイチ言葉にならない…。

わかりそうでわからない…。


そこで私は、再度ミイコさんの記事を訪れました。

以前は、本を読んでいない状態でこの記事を読みました。
なんとなくふわ〜っと読んでいたのだと思います。

この後まさか自分がこの本を読み、感想文を書くとは思っていない状態。

本を読んで、感想文を書いた後読んで見ると、ミイコさんの言葉、文章が全く違って見えました。


あ、ここからなんとなく書けそう…。
そう思い、本日再度『死にがいを求めて生きているの』についての追記記事を書こうと思います。

とはいえ、またつらつらっと書いていきますので、深掘り出来たのか?と言われれば、ちょっと不安もあります。

さらに、めっちゃ長くなり、約5,500文字になってしまいました💦

お付き合い出来る方は、どうぞよろしくお願いします😊


ミイコさんは、この『朝井リョウ』さんの本を読み、理解や共感が出来なかったということを書かれています。

私は若いころに何かに真剣に打ち込んだ経験がなく、だから大きな挫折も感じたことがなく、「何者かになりたい、ならなければ」といった真剣さも全くなく、「いかにラクして楽しく生きていけるか」ということをただただ考えてきた人間でした。
『ワクワクを求めて生きているの』改め…より引用
朝井リョウさんが描く「自分探し・生きがい探し」といったテーマは、私がほとんど通ってこなかった道です。
『ワクワクを求めて生きているの』改め…より引用

さらに

生きがいや自分探しとか考えたこともなく、ずっとずっと真っすぐにお金と自由を追い求めてきました。
『ワクワクを求めて生きているの』改め…より引用

そして、こちらの言葉

この記事を書いている途中に「いや、私が求めているのはワクワクではないな」と思いました。

「ワクワク」は、私にとって最重要キーワードです。私の生き方を語るうえで、この言葉を外すことはできません。

でも「ワクワクを求めている」という言葉には、なにか違和感を感じました。

ワクワクは求めるものではなく、本当の本当の私の心に、自然と湧き上がってくるものだよね。

どうしてもタイトルにワクワクを使うのであれば「ワクワクに従って生きているの」になるんかな。
『ワクワクを求めて生きているの』改め…より引用

そう‼️
これこそが私の言いたかったことだ‼️


ここから先は私の勝手な妄想、想像、考察であり、ミイコさんにとって失礼なことになってしまうかもしれません…。
私としては、決してミイコさんをこうだ!と決めつけているわけではないです。
もしかしたらこうなのかな?という、仮説として読んでいただけたら…と思います。

私はミイコさんを尊敬しています。
だからこその思いとして書かせていただきたいと思います。

私の中でざわついた部分。
『何者かにならなくては生きている価値がない』
これは、自分の中にいる他者の目からによるもの。

ミイコさんは、ご自分の中に他者の目が存在していなかったのではないかと、思うのです。
だから、ざわつかない。

全くないのかはわかりません。
限りなく小さかったのかな?と思われます。

ミイコさんの中で、
何か凄いことをしないと…。
誰かに認めてもらわないと…。
という焦りがそれほどなかったのは、他人と自分の線引きが上手く出来ていたからではないかと思うのです。

それは、常に意識は自分の中にあったからなのではないでしょうか…。

『ナンバーワン』にならなくても私。
『オンリーワン』にならなくても私。

そんな感じなのかな?と。


本に出てくる若者たちは、
「あなたはあなたのままでいいんだよ」
「生きてるだけでいいんだよ」
という
『ナンバーワンよりオンリーワン』という価値観の世の中で生まれ育っている。

競わなくていい。
争わなくていい。
そこにいるだけでいい。

だけど、その他大勢の自分になんの価値があるのかという不安感がつきまとう。

『何者かにならなければ』
『生きがいを見つけなくては』という思いは、人生に対して一生懸命だとか、そういうことでもなく、不安感によるものだと私は本を読んでそう感じました。

こんな生産性のない『オンリーワン』にもなれていないこんな自分が生きていていいの?という不安。

だから、何かを探す。
誰かに賞賛される何かを探す。
何者かになるアイテムを探す。

本当の意味の『生きがい』を求めていたというよりは、誰かに
「生きていていいよ」
「あなたは凄い人だよ」
という承認が欲しくて、アイテム探しをして、もがいていたと思うのです。

つまり、若者たちは
生きがいを求めて生きているの』
=『承認を求めて生きているの』
なんです。

湧き上がる何かから行動してるわけではなくて、何か行動することで、自分の中に湧き上がるものを探しているのではないかと思うのです。

ミイコさんは、ご自身のタイトルに『ワクワクを求めて生きているの』と書かれたことに対して違和感を感じた。

それはそのはず。
だって、ミイコさんは、求めるためにワクワクしてる訳じゃないから。

誰かに承認されたくてワクワクしてる訳じゃないから。

自然と湧き上がってくるものだから。

だから「ワクワクに従って生きているの」なんですよね。


これって凄いことなんですよね。

昔、私は『コーチング』のお勉強会のようなものに参加したことがありました。

その指導してくださる方は地方を回っている方で、たまたまSNSを見て知っていて、私の住む地域の近くに来ることを知り、参加することにしました。

参加者は私を含めて4人だったかな?

で、会議室のようなところで講習を受け、ラストは、2人1組で相談者とコーチ、つまり傾聴者のような役割をして実践編みたいなことをしました。

私の相手役の方は男性。

何度かこのような講習にも受けられていたようで
「100人傾聴すれば自分の経験値になる」
「あと何人で100人になる」とか
「この間はこんな方のこういう話を聞いた」などと、先生と話をしているのがチラッと聞こえていました。

なんとなく私の中で、ザワッとしました。

で、私が相談者で、その男性がコーチ役。

はっきりとした記憶はないのですが、確かテーマが『自分のやりたいこと』だったか、『夢』のようなことだった気がします。

その時の私は『マッサージ』とか『〇〇セラピー』とか人を癒すことをしたいと思っていました。
だけど、それはダンナに大反対されるというもわかっていたので、ほぼムリだよな…絶対ムリだよな…という半ば諦めの中にいました。

でもここはコーチングを習う場。
適当に、それを夢として掲げて話を進めた方がスムーズに事が進むと判断し、それを軸に話をしました。

男性は、『コーチング』のマニュアル通りに色々聞きながら、私に色々言葉を出させようとしてきます。
もう、それは
「俺は手慣れてるぜ」
「俺の手に掛かれば、今まで封印いていた君の心の奥を引っ張り出すことが出来るぜ」感満載。
その男性の心の声が聞こえてくるかのようでした。

に、苦手…。こういう人…。

苦手だなぁと思い、私はめんどくさくなり、その男性の欲しがる言葉を探して答え始めました。

「なぜ、マッサージをしたいの?」
「なぜ、人を癒したいの?」

何度も聞かれる『なぜ』

お前はトヨタか‼️

心の中でツッコミながらもコイツに本音とか言えねー、ってか言いたくもねーしと思い、適当に返答していました。

けど、その返答の中にも自分で
「あれ?私、ホントにマッサージやりたいのか?」
「ホントに誰かを癒したいのか?」
みたいなことをチラッと思い始めた訳です。

私、誰かに認めて欲しくて『マッサージ師』というアイテムを手に入れようとしてないか?ということですね。

私はちょっとマッサージが上手く、気功が使えた時期もありました。

そして、なんとなく人の身体の痛いところがわかったり、その痛みが自分の身体に伝わってくる感覚があることもありました。

仲のいい人や身近な人のマッサージをしたり、さらには学校の懇親会などの飲み会の席などでも足裏のツボ押しなどをしたことがありました。
(本当は飲んだり食べたりしてる時はダメですが…)

その度に
「え?なんでそこが痛いってわかったの?」
「どこどこの内蔵が悪いんだよね」
「あぁ、楽になった」
などと言われ、私自身嬉しい気持ちになったのは確かです。

だから、アイテムを手に入れるためだけにマッサージ系の仕事をしたいと思ったわけではないのも事実なんです。

が、色々質問されていくにつれ、自分の中でなんだかわからない気持ち悪さが見え隠れしたのも事実なんです。


今の会社には、高校を卒業し、そのままずっと勤めています。

やりたい仕事としてこの会社を決めたわけではありません。
自分に合っているとかでもなく決めました。

伯母も勤めていたし、寮もあったし、土日休みだし、福利厚生がしっかりしてる。
そんな理由で決めた会社。

仕事は誰でも出来るといえば出来るような仕事。特別私でなければならないという仕事でもない。

さらには、私は仕事が出来る方ではなく、どちらかと言えば落ちこぼれの方。
いや、かなり落ちこぼれの方。

その他大勢の会社員。
さらには生産性の低い落ちこぼれの私。

ここから脱出するには、人より少しだけ得意な
『マッサージ系』の仕事を選んだ方が人の役にも立てるし、自分もしあわせになれて、さらには人に生きていていいと思ってもらえるんじゃないかと思ったわけですね。

この時にはここまでハッキリとした答えは出ませんでしたけど。

『なぜ、それになりたいの?』という問いに対して、本気でワクワクに従って生きていなかったということだったのだと思います。

それ以来、私の中で『マッサージ』系の仕事をしたいとかの思いはさらに胸の奥にしまい込むようになりました。

ワクワクからではなく、アイテムだからかな?


今私は読む本がなくなり、息子の中学の時の道徳の教科書を読んでいました。

その中に『失った笑顔を取り戻す』というお話がありました。
この話は、義肢装具士というお仕事をされている臼井さんという方のお話。

簡単に説明すると、臼井さんは、小学6年生の時の担任の先生が義足になったことを受け、その先生に役に立てないというもどかしさを感じていた中、28歳の時にたまたま通りかかった職業訓練校で見た「義肢化」という文字に心が動かされ、この職業についたと書いてありました。

義肢装具士というのは、患者さんの足に合わせて何度も何度も調整しなければならないとのこと。
時には
「こんなもの、着けられるか!」と義足を投げつけられたこともあるとか。

それでも臼井さんは、患者さんの痛みと真剣に向き合った。

さらには、患者さんがもっと生き生きと生活するためにはどうしたらいいのだろかと、考えるようになりました。

そこで、臼井さんは「走れるようになればスポーツをする楽しみが増える。さらにはそれによって筋力がつき体全体のバランスが向上し、歩きやすくなり、人生が豊かになる」と考え、スポーツ用の義足を作る挑戦を始めました。

そして、今では陸上チームをボランティアで立ち上げたり、パラリンピックの選手が活躍する人を生み出すことにもなりました。

けれど、臼井さんの目的は、アスリートを育てることではありません。

手足を失い、希望を失った人に対して新たな希望や豊かな人生を歩んでもらいたいという一心だと思うのです。

つまり、臼井さんは『アイテム』が欲しくて『義肢装具士』になり、誰かに賞賛して欲しくて『パラリンピック選手を育てている』わけではないのです。

目の前にいる人に必要なものを作ってあげたいという『うちなる情熱』『湧き上がるワクワク』に従って生きているのだと思うのです。


私には、取ってつけではない、うちなる情熱、湧き上がるワクワクがあるだろうか…。

今そんなことを考えています。

何者かになるための『アイテム』を手に入れようとするのではなく、心から手に入れない『何か』

だけど、それはムリヤリ見つけるものでもないとも思っています。

突然、私がキンプリが気になり、大好きになり、ファンになり、ティアラのティアまでになった今。
恋はするものではなく、落ちるものという意味がわかった今。

ムリヤリ探そうとは思いません。

きっと、うちなる情熱もワクワクもするものではなく、落ちるものなのだと思うから。

それまで、ふわふわとnoteの世界とリアルの世界を行き来しながら楽しんでいたいとおもいます。


ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます😊


しあわせをありがとうございます😊

考察から考察へ繋がるしあわせ🥰

うちなる平和を💕
シュカポン🐼

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