旅に出た彼女から習ったケンカ
旅に出た彼女から習ったケンカは
① 相手を無視せず、
こちらと相手の言い分を主張し、歩み寄る
② ケンカをしたら仲良くする
今後関わらない選択肢も「仲良く」に含めて
③ 執拗に相手を責めない、追いかけ回さない
わたしのケースは相手に逃げられて失意しか残らなかった。
第三者からのお叱りを受けて、お叱りは今も心して受け止めているが、一体なんだったんだろうな。
この失敗を周りの方々にはしてほしくないので、
公平な立場で意見を残しておく。
強制力はないので、
「そういう一意見もある」ぐらいに読み流してもらえると嬉しい。
円柱を上から見ると、丸
横から見ると、四角
どちらも事実なら
話し合いをして歩み寄るか
二度と関わらないと決別するか
「関わらないけど文句は言わせろ」って
周りはそんなに暇じゃないし
首を突っ込み精査しない
実社会はいつまでもネチネチ言う人から
人は離れていくのよ
実社会を踏襲する
だから、随分と前の出来事らしいのを
ネチネチ言い続けて
「フォロワーさんを信じています」と
周りに委ねて主張にされても
「いつか、この人が気に食わないと
延々にネチネチ言われるぞ」離れちゃう
文句を言いたいなら
【1発で華麗にキメる】
言質や証拠を添付して、長文になってもいい
言いたい気持ちは分かるから
あとは、相手の言い分を聞く気がないなら
ブロックして
いつまでもネチネチ言わないの
ブロックして、新しい関係を求めて
楽しく創作に励むのが建設的よ
命は有限じゃん
時間がもったいないじゃろ
いい機会だから初心に戻って
自分がやりたい創作などをする
自己成長に投資しようや
前を向け!
わたしの意見が異論か正論かは別にして、
「みんな仲良く一緒に平和を築こう」と
全然思ってない。
人とウマが合う合わないがあるのは当然で、
トラブルが遭ったら、ウマが合う以前の話。
「ケンカは見えないところでやれ」
これも正論だけど、第三者が入らないと感情論が競り合うのよ。
淡白に決別し合えば幸いだけど、感情論に発展して暴言が発せられたら、より強い私恨が残る。
傷ついて泣き寝入りしたくないから、
いつまでも苦言を発信することになるんじゃん。
わたしが第三者として見ていると
「この主張は相手に謝罪してほしいのか、
それとも相手を傷つけたいだけなのか」
目的が曖昧なものがある。
「一体、相手にどうしてほしいん?」って。
相手も人権が保障されているからには、
消えてくれや死んでくれは無効だよ。
「消えてくれ、死んでくれ」を言った瞬間、
あなたは加害者になるのを肝に銘じてね。
わたしの時は、相手に謝罪してほしかった。
目的を明確にしないと、無闇に相手を傷つけたい欲望だけが心を支配するからね。
周りに同情してもらい、相手を多勢に無勢の状態にして集団リンチのようなことはイジメっていう問題へと変容する。
ネットの匿名性は自分も知らなかった凶暴な自分を知って自分を嫌いになっちゃうよ。
相手のことが嫌いなら嫌いで、どうして相手から気持ちが離れないのか、自分に聞く。
人に話を聞いてもらい、それで心が修復できそうなら、人に聞いてもらう選択をする。
事の発端から顛末を整理して、
相手にどうしてほしいのか、自分はどうしたいのかを明瞭にしてケンカは売ろう。
失敗したわたしから言えるのは、
仮にケンカや自身が納得しない結末になっても、
自分を見直してデジタルデトックスが出来たり、
やりたかったことへチャレンジしようと取り掛かったり、
なにより自分が好きな創作が自分を救ってくれる。
よっぽど酷い結末にならない限りは何らかの救済があるもんよ。
最後まで希望は捨てない。
健全に昇華されていくからさ。
それでも恨みつらみが消えないなら、
メンタルクリニックで主治医や心理士などの専門家と対話して、
本当の問題点を探すのもいいかもしれないよ。
お陰様で、現在のわたしは充実した日々を過ごしている。
年末に帰省した友達と年始に食事へ行って
「今年はこういうことをやりたいね」
計画してきたのは実だったり、別の友達とは夏キャンプへ向けてリハビリや体力作りの話をしたり、 去年を振り返っても、楽しいことが占めた。
ー 最後に ー
誰かのtwitterでの投稿へ
「優しい人は蔑ろにされ続け、
性格が悪い人は楽しそうに生きている」的なのを見かけて、笑っちゃった。
人の性格や人間関係は単純な二分化で決定されないのよ。
自分が二分化思考と短絡的な決定をしているときは
絶対にケンカは売っちゃいけないよ。
感情が昂っているときは足元を掬われるからね。