わたしと一緒に哲学する?
山根あきらさんからの問い②
哲学とは「知」を「愛する」
明治時代に西周が
フィロソフィアを「哲学」と訳したはず
では、わたしみたいなアホと無縁か
人が生まれて、人を取り巻くものなど
深慮するのが哲学で
哲学を語り合うのは無駄か、有意義かは
語り合う相手による
「生きるとは何かね?」話を振って
「うわっ、面倒臭い」という相手とは語り合えず
論点がコロコロ変わる人とも、苦痛が伴う
「今、何の話をしてたっけ?」が、ある
根拠を重ねて真を得ようとするのが、科学
理由で真に辿り着こうとするのが、哲学
信仰から真へ導こうとするのが、宗教
だと、今、勝手に区別したけど
仮に「人が死んだらどうなるの?」の問いに
根拠、理由、信仰と科学、哲学、宗教を
思い込みで、ごちゃ混ぜにされたら意味不明になる
「つまりは、知識のマウントですか?」
答えが見つからないものを見つけようとする
本来なら、楽しい作業だよ
わたしは単純作業をしているとき
脳内は哲学してる
それを思考するのが好きな人と語り合うのは
至極の喜びだと思う
有意義な時間になるでしょう
実際は、人によっては一方的に
ここぞとばかり、否定してくる
話す方は、気分が滅入るのではないかと思う
哲学を語り合うといえば
哲学者 ヴィトゲンシュタインは『青色本』の中で
「本質的な点は、私がそれを語る相手は誰も私の
言うことを理解できてはならないということ」
「他人は『私が本当に言わんとすること』を理解できてはならないという点が本質的なのである」
例えば、あなたはお腹が痛い
でもこれは他人も分かる痛みなのか?
「痛いね、分かるよ」と言っているに過ぎない
ヴィトゲンシュタインは、こう考えたのね
哲学を語り合うにしろ、相手が同意してくれたから
だからといって、相手は自分と同じ認識ではなく
自分は理解されてはいないんだよ、の意味
かと言って
哲学は対話がないと、独断的だと哲学とは言わない
相手に真理をどう伝えるか、根気強さが必要で
それでもいいから、楽しい人には有意義かな