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痛みと引き換えに得たもの

 歯科クリニックは今でこそ選び放題だが、昔は違った。予約をしても1時間待ちは当たり前で、近所に通える場所も少ない。だから高校の近くにある歯科を受診した。

 そこで、あの事件は起こった。
わたしにとって「冬」はこの出来事。
喉飴を噛んで欠けた歯の治療、まるで拷問だった。

 歯に塗られた薬がじわりと広がり、酸っぱい刺激が口いっぱいに満ちた。
 直後、熱さと痺れを感じ、そして激痛。
歯と歯茎に釘を打ち込まれたような感覚。嘔吐が込み上げ、悲鳴とともに診察台から転げ落ちた。

「今どきの若い子は……」

 歯科医の呆れた声が今でも耳に残っている。

 その日の治療は薬を塗って終わり。
頓服を3錠もらったが全然効かない。

 口を閉じれば激痛、口を動かせば痛みが長引く。食事も睡眠もまともに取れなかった。バファリンすら無力だった。

 学校へ行くと、友達が心配そうに言ってくれた。
「大丈夫? 早退したら?」
 でも、数ⅠAと地理は受けたかった。机に突っ伏しながら痛みに耐えていると

「ももまろ、寝てんじゃねえぞ」

 数学教師に名指しで叱られた。
涙目で「歯が痛いんです」と訴えたが、返ってきたのは外気より冷たい言葉だった。
「歯ぐらいで大袈裟な」

 後ろの席から「大丈夫?」と声がした。

 休み時間に歯科クリニックへ電話したが
「予約は1週間後です」と言われるだけ。異常を訴えても聞いてくれない。診察に行っても薬を塗られるだけで終わる。
部活は休んで、彼氏とも会わない生活を続けた。

 そんなとき、実家の近くに新しい歯科クリニックが開院した。母がそこへ連絡を入れ、診てもらえることになった。

 若い男性の歯科医が口内を見て言った。
「歯が欠けたぐらいで、神経が死んでるよ」
「前の先生が、神経を殺す薬を塗るって言いました」

 先生は一瞬、黙り込んだ。
「よその悪口になるけどさ、
今どき、そんな薬を使うところがあるんだね。
痛かったでしょう?」

 激痛生活は、こうして約1ヶ月で幕を閉じた。

 その歯科クリニックには、今でもわたしの歯全体を石膏で作った歯型が飾られている。
『生まれつきの完璧な歯並び』

 もし、あの事件がなければ記録が残ることもなかった。

 定期検診に行くたび、わたしは複雑な思いでその歯型を眺めてしまう。