普通で怖い芥川賞受賞作〜高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」
文藝春秋九月号は、芥川受賞作の掲載号である。いつもの通り、受賞作を読み(挫折するケースもあるが)、選評、著者インタビューへと進む。
今回の受賞作は、高瀬隼子の「おいしいごはんが食べたくて」。
半年前に、砂川文次の受賞作「ブラックボックス」について書いた文章を確認すると、<芥川受賞作の中には、個性が強く、描かれる世界もその文体共、とっつきにくい作品が多々ある>、<そうした“尖った”芥川賞受賞作品に比べると、「ブラックボックス」は王道の小説のように思う>と書いていた。何が小説の“王道“かについては、様々な考え方があると思うが、本作はさらに「尖り」がない小説である。
何よりも読みやすい。さらに、先がどうなるのかが知りたくて、ページを繰る手が止まらない。そこに書かれている世界は、“普通“の世界で努力せずとも頭に入ってくる。それだけに、最初は「これが芥川賞?」とも思ったが、読み進むうちに当初の印象は変化する。
「男の胃袋をつかむ」という表現がある。私は勘弁して欲しいと思うタイプである。しかし、現実にそういう努力をする女性がいるという認識はある。ネットで検索すると、少し古い記事だが“男の胃袋はコレで掴める!鉄板「ガチで彼氏に喜ばれたご飯」ランキング“という記事を見つけた。やはり、アプローチの方法の一つとして確立しているようだ。
小説の舞台は埼玉、よくあるタイプの職場である。そこで働く女性、芦川は「胃袋をつかむ」タイプである。彼女の場合、彼氏のみならず周囲に対しても対「胃袋」を含め、“八方美人“的に接する。
男性は三谷。これまた周囲にいそうな男性であり、ある種“優しい“タイプである。
もう一人の女性、 押尾は少しカドがあるタイプ。この3人を中心とした、職場内外における物語である。そして、そのドラマを回していくものが、“ごはん“、食事や食べ物である。
齢を重ね、社会人生活を送り、世の中で起きている出来事をある程度把握できる立場になると、「そんな奴おらんやろ」という対象が年々減少する。人間の複雑さ、心の中の闇の深さを嫌でも見せられてしまう。
この小説の世界では、かつては「そんな奴おらんやろ」だったものが、今や「あるある」「いるいる」に変化している。描かれている“普通“は、何とも言えず気持ちが悪く、静かに怖がらせる。
著者インタビューで、高瀬隼子は<ご自身は芦川に似ていますか?それとも押尾に近いのでしょうか>と聞かれ、<「たぶん両方だと思います」>と答えている。この小説に登場する人々は、一種のステレオタイプでもあるのだが、確かに実際の人間は多面的な存在であり、物語に登場するエピソードに反応しながら、多くの人物と自分の内面との共通点を感じるのかもしれない。
著者は、職場や家庭で、辛いことがあっても我慢して乗り越えてしまえる、<「能力的に『できてしまう』一部の人」>の<「内面にある『呪い』を書きたかったのです」>とも話している。
蛇足だが、今回の芥川賞候補者五人は全員女性、直木賞受賞者も女性だった。選評で、山田詠美が、<ある種のメディアは「世相」や「時代」とかに絡めて>報道、記者の質の劣化を含め批判する。<ジェンダーフリーとか多様性とか、女性の社会進出とかと結び付けて、お手軽にアップ ・トゥ・デイト感を出そうとしたのだろう>。男女機会均等法を引用し、<小説の出来に「均等」なんてないよ!そこ、ヨロシク>と書いていた。
私は、「今回の受賞作は読みやすく、面白いよ」と、文藝春秋を妻に手渡した。そんな芥川賞受賞作は珍しい