”才能”を活用するということ〜角田光代「タラント」
タラント(タレント):①古代ギリシャおよびヘブライの衡量および貨幣の単位。②才能。技量。(広辞苑第七版より)
中高とカトリックの学校に通った。中学1年の時、キリスト教の授業があり、新約聖書のいくつかの箇所について神父が話をしてくれた。その中で、印象に残ったのが“タラントのたとえ“だった。マタイによる福音書の第25章にある説話は次のようなものだった。
主人はその3人の僕(しもべ)に、その能力に応じて5タラント、2タラント、1タラントを与え、旅に出る。ここの“タラント“は貨幣である。5タラントを受けたものはそれをもとに商売をし、さらに5タラント儲ける。2タラントをもらった僕も同様に、2タラント稼ぎお金を増やす。ところが、1タラント与えられた僕は地中に金を隠した。
時が経ち、主人が帰ってくる。与えられた金を元手に儲けた二人はそのことを報告し、主人は忠実な僕だと喜ぶ。しかし、1タラントを隠していた僕に対しては、怠惰だと叱責し、金を取り上げる。
神父の教えを踏まえた私の理解は、主人は神であり、与えられた金は、それぞれの人に授けられた“才能“である。そして、人はその“才能“を活用しなければならない。英語のタレント(Talent)=“才能“は、このタラントが語源であると。
中1の私は、これを素直に解し、“頑張らなくては“と思った。もちろん、続かなかったが。その頃の私は、「“才能”とは何なのか」、「“才能を活用“するとはどういうことなのか」、「“才能“があっても発揮できない状況」といったことに思いを馳せることはなく、単純に“頑張る”という言葉に変換していた。
角田光代が5年ぶりに出した小説は、まさしくこの“タラント“をタイトルにし、それに向き合った作品である。
主人公のみのりは香川の出身、曽祖父母がはじめた「ほうらい家」といううどん屋は、祖父母を経て、伯父夫婦が営む繁盛店。みのりの母もそこで働く。小説は、そのみのりが30代後半になった2019年という現代、みのりが香川を離れ東京の大学に進学する過去、そして祖父の記憶がパラレルに展開されていく。その先にあるものの一つは、表紙に描かれた木内達朗の挿画に表れている。(「タラント」は読売新聞に連載され、木内達朗が素敵な挿画を書いている。一部がWebで公開されいて、読後に眺めると、小説の様々な場面が思い起こされる)
“才能を活用する“というのは、裏返すとプレッシャーである。特に若い時代には。“何かを達成しなければならない“という気持ちが空回りし、動くことが目的化し、自分を見失うこともある。香川に帰ってきた、若いみのりに、祖父の清美はこう言う。<「なんちゃせんでも、ええ」>、<「こうして座って空を見とると、雲が流れていく」>。
しかし、動きたくなるのも人間である。何もしないというのも苦痛になる。そして、“才能“などという大それたことを考えずに懸命に生きる、<何か意義のあることをしようかと思わずに、まずは自分自身の区暮らしをしっかりと送ろう>と。すると、声が聞こえてくるかもしれない。<やりたいことを思うままやったらどうですかね>。
みのりを導く一人が、祖父の清美で、この存在が物語の重心のように描かれている。さらに、みのりの周囲には多くの人が登場するが、その一人一人が重要な役割を持ち、総体として一つの世界を創り上げている。「源氏物語」の現代語訳という大仕事が、角田光代の血肉になっているような気もした