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海の見える一箱古本市を終えて

時、のことを考えている。
深夜にテレビをつけると、NHKで東京の鉄道を特集した番組が流れていた。
東京、という場所にそれほど馴染みがあるわけではないけれど、
その人の多さ、それを運ぶ鉄道という交通手段が、ひとつひとつの仕事によって辛うじて成り立っていることを伝える番組は興味深かった。

もしかしたら製作者は、暗に、こんなに頑張っているんだから、みんなあんまり怒らないでね、ということを伝えたかったのかもしれない。
この番組から、単純に、みんな何をそんなに急いで、どうしてそんなに窮屈な場所にいるのだろう、という疑問を立てることもできる。
けれど、僕がこの番組を観たあとに考えていたのは、全然違うことだった。


「運転人は分ではなく秒を守れ」

番組で紹介されていた言葉。

番組でこの言葉を聴いてから、ぼんやりと想像が膨らんでいった。
今(今とはいつ?という疑問はひとまずおいておいてほしい。それが今一番わからないのだ。)、
ヒトが一般的な生活で時を刻む最小の単位が秒だけれど、それがいまよりももっと大きな、あるいは小さな幅だったのなら、どんな生活になっているだろう。

どこかで読んだけれど、その昔、「一瞬」というのは、
僕たちに馴染み深い単位でいうと、だいたい18秒くらいに当たる時間だったらしい。

例えば、1瞬を最小単位にして、21瞬で1音。33音で1悠としてみたら。

「次の電車は5音後だな」
とか、
「1悠前集合ね」
とか。

もう少しのんびりになりそう。
悪くない。


例えば、日が昇って沈むまでの長さを13で割った、1端という時間を基本単位にしてみたら。
当然、1端の長さは日によって変わる。
人はもっと、太陽や季節と近くに暮らすことになるだろう。
そして、日が沈むと人は時を刻む術を持たなくなる。

悪くない。


この話を相方にしたら、そうしたらそれで忙しい忙しいって言っていそうだよね、とのこと。
そうなのだ。それはつまり、いま寄りかかっている時間の単位があくまで相対的でしかないことを表している。

もっというと、時を統一の単位で区切って時間にしてしまおう、という発想自体が無理のあるものなんじゃなかろうか。

客観的に評価できないという人もいるかもしれない。
でも、客観なんて、主観の寄せ集めの多数決に過ぎないという見方もできなくない。
そう考えると、事実なんていうものもあんまり大したことではないような気がしてくる。

こんな話をするのは、どうも信じられないからだ。
学校で講義を受けていた退屈な時間と
一箱古本市で過ぎた時間が、同じ速さで流れているなんて。


という訳でようやく本題にたどり着きました。

こんにちは。ほんや徒歩5分と申します。
先日「海の見える一箱古本市」に参加したときの心の動き、振り返って思うことを書き記しておこうと思います。

ただ僕は、思い出す、というのがあまり得意ではありません。
記憶が断片的です。
当日降っていた雨の匂いとか、それが上がって空が明るくなる瞬間とか、その日の夜の眠りの深さとか、そういう些細なことは覚えているんですけれど。

よく、一番初めに買ってくれた人の顔は忘れられません。とかありますが、忘れてしまいました。

ただ、「読む」という行為は、世界の、自分の、新しい場所を拓いていくこと、もしくは、潜っていくこと、その時の意識の動きなんじゃないかなと思っていて。
その入り口を訪れてくれた人に届けることができたとするのであれば、なんだかすごいなぁと思います。


この本を読んで、この人はどこにいくんだろう。

そんなことを、web上でやっているときは届ける人が見えないからこそ、想像して楽しむことができたけれど、
対面で言葉と温度があるヒトに届けると、その「本当さ」に怯むというか、途方もなさみたいのものを肌で感じました。
顔は忘れてしまったけれど、その手触りみたいなものは、確かに、全て残っています。

同時に、やることはいつもweb上でやっていることとそんなに変わらないな、とも思いました。

何を介しても、自分が届けたいと思ったものを、届けていくこと。
その軸で見れば、大きな違いはない。

ただ、今の自分の「届けたいもの」がとても狭い場所から選ばれているものだなというのが、周りを見渡して感じたことのひとつ。
もっといろんな本と出会いたいと思う。
届けられる本の幅、人の幅を拡げたいと思う。

それと同時に今回の自分に届けられたものを零したくないとも思う。
でも零したくないっていうのは、零すことを予感しているからこそ生じるものなのかもしれない。
だから零したくないと感じた自分を、そのまま残しておきたい。

スヌーピーは「配られた手札で勝負するしかないのさ」と言ったけれど、
その諦観と「手札を増やす意識」を同時に持ち続けるということ。
自分の足りなさを感じながら、その都度その都度の100%をだすこと。

そうすることで、同じ「好き」を共有できる場所でもあると同時に、
新しい「好き」に出会える場所であることができるような気がする。

ただ、新しい出会いをしてもらうためには、「ここでおいてある本なら!」という信頼感を得ることも必要。
いまはそのフェーズの一番最初のラインにいるんだと思う。


そういうポジショニングの話を少し横にずらしみると、今回のイベントを通して感じたことがもうひとつ。
出店しているお店を見渡すと、
たくさん本を置くことでしか出せない、誰もを受け入れる懐の深さを持つ場所と、
1つの分野を突き詰めたからこそ、コアなファンを呼び寄せる場所の2つに大きく分けられるように見えた。

一箱古本市は、その2つの真ん中の立ち位置を取るのが非常に難しい空間だと感じた。
上に書いた2つの場所がどうしても目を引く。
でも例えば、街で本屋さんをやることになったら、そこのバランスみたいなものも、必要になってくるんじゃないかな。

思い出すのは「ガケ書房のころ」のセレクトショップの話。
お店をやるということは、自分が売りたいものを選ぶことと、おきゃくさんが求めているものとの綱引きなんだって話がとても印象的だった。
自分が届けたいもの、買ってもらえるもの、売れないものの間には絶妙なバランスがあって、
そのなかで自分の立ち位置をどこにおいていくのか、適当な場を作っていく難しさの端っこを齧った気持ち。


いずれにせよ、なにを介して本を届けたとしても、
本は本で、それ以上でもそれ以下でもない。
ただ、それを介して何に気づくのかは、読む人が積み重ねてきた言葉や時によって異なる。同じ応えはない。
だから全ての人に好かれることはできないけれど、
どこから見ても、芯が通っている場でありたいとは思う。

ここまで書いていて、届けたいという感覚って、「自分が好きかどうか」というものとは違うんだな、という当たり前だけど、こうやって本を売る立場になったからこそ理解できるようになった感覚が立ち上がってきた。

自分が好きかどうかっていうのは、結構小さな基準で、届けたいっていうのはもっと大きい。
今僕が持ち合わせている言葉で表現すると、「届けたい」は、「芯が通っているか」とも言い換えることができる感覚で、
(これから表現が変わる可能性は大いにある。どちらにしろ、言葉になるのなんて伝えたいことのほんの少しだけだ)
このふたつを混同してしまったらお終いだなと思う。



閑話休題
さっき触れた「ガケ書房のころ」という本。
ホホホ座という本の多いお土産さんの山下さんが、ホホホ座をやる前にガケ書房という本屋さんを営んでいて、その近辺を綴った自伝的な本。
実は数年前に足を運んだ京都のイベントにホホホ座さんが出店していて、この本を山下さんの手から直接買わせていただいた。
その当時恥ずかしながらホホホ座のことを微塵も知らなくて、ただブースを眺めていたら「君、将来自分でお店やりたいと思っているでしょ?」と唐突に山下さんに聞かれて。
明確な意思を持っていた訳ではないけれど、なんとなく自分でなにかやりたいとは思っていたから本当に驚いた。
そうしたら、この本を買っていくといいとご本人が自分の本を勧めるという不思議な展開。

どんな人かはわからないけれど、せっかくならとサインをいただいた。
そこに書いてもらった言葉が「始めることより、続けること」。
さっき言った信頼感みたいなものは、冒頭の「悠」とか「端」という、あらゆる時間の単位をも超えて、まさに続けることで生まれうるものだ。
僕がお店やる時になったら内装手伝ってくれるって言ってたの覚えていらっしゃるかな、覚えていないよな。


最後に、高松という町の感触がとてもよかったので、そのことを書き残しておこうと思う。

人生で3度目の香川県、高松だったのだけれど、今までで一番じっくり味わうことができたような気がする
(いままでは、瀬戸内海に浮かぶ美術館を目指す途中での通り道だった。)

何が良かったか。
その時はうまく言葉にできなかったけれど、思い出してみると、人が街で混ざっていたことにあるような気がする。

いろんな層の人が同じ空間で同じ空気に触れていることは、直接的な交流がなかったとしても、そのこと自体に意義があるように思っている。
それが目の前で起こっていた。

行き過ぎた都市化は、年齢や趣味嗜好によって良くも悪くも細分化を進め、それぞれの居場所が固定化される
同質均質なものの集まりはただただ居心地が良かったりもするけれど、それ以上でもそれ以下でもない。
多少の「わからなさ」や「未知」、「異」が身近にあることは、必要なことではないけれど、豊かな”なにか”の礎になると思っている。
そんな場所が町にあって、そのことが高松の人にとって日常なことが、素敵だなと思った。
そして、一箱古本市のようなイベントに老若男女問わず人が集まるのは素敵なことだとも思う。

今回の滞在の最後に訪れた本屋ルヌガンガさんが、とてもよかったことも付け加えておきたい。
まちと本屋さんのバランスが体現されていて、まちとともに在る場所だと、感じた。
短い滞在時間だったが、贅沢な時間だった。
高松を訪れたら是非立ち寄ってほしい。


本当の最後に。

ここでは全てに触れることはできなかったけれど、
出展者同士の出会いや再会(初出店なのに)に、
そして足を運んでくれた方、本を買ってくださった方に、
海の見える一箱古本市を運営してくださった方に感謝を伝えたいです。

単純に楽しかったし、自分の立つ場所を確かめることができるという意味でも、出不精の僕にはひとつの出会いがとても貴重なのです。
そうした場をつくってくれたこと、出会ってくれたこと、ありがとうございます。
またどこかでお会いできる日を糧に、精進します。

長くなってしまいました。この辺りで今回は失礼します。
では。

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