『失われた時を求めて 第一篇 スワン家の方へ』 – 日めくり文庫本【11月】
【11月14日】
コンブレーにかんして、自分の就寝劇とその舞台以外のいっさいのものが私にとってもはや存在しなくなってから、すでに多くの歳月の過ぎたある冬の一日、家に帰った私がひどく寒がっているのを見て、母は、ふだん飲まない紅茶でも少し飲ませてもらっては、と言いだした。私ははじめ断ったが、それからなぜか、気が変わった。母は「プチット・マドレーヌ」と呼ばれるずんぐりしたお菓子、まるで帆立貝の筋のはいった貝殻で型をとったように見えるお菓子を一つ、持ってこさせた。少したって、陰気に過ごしたその一日と、明日もまた物悲しい一日であろうという予想とに気を滅入らせながら、私は何気なく、お茶に浸してやわらかくなったひと切れのマドレーヌごと、ひと匙の紅茶をすくって口に持っていった。ところが、お菓子のかけらの混じったそのひと口のお茶が口の裏にふれたとたんに、私は自分の内部で異常なことが進行しつつあるのに気づいて、びくっとした。素晴らしい快感、孤立した、原因不明の快感が、私のうちにはいりこんでいたのだ。おかげでたちまち私には人生で起こるさまざまな苦難などどうでもよく、その災厄は無害なもので、人生の短さも錯覚だと思われるようになった——ちょうど窓の作用が、なにか貴重な本質で私を満たすのと同じように——。というようりも、その本質は私の内部にあるのではなく、それが私自身だった。私はもう自分を、つまらない、偶然の、死すべき存在とは感じていなかった。いったいこの力強い喜びは、どこからやってきたのか? 私はそれが紅茶とお菓子の味に関連があるとは感じたが、しかしこの喜びはそれをはるかに超えたもので、同じ性格のものであるはずはなかった。それはどこから来たのか? なんの意味か? どこでそれをとらえるのか? 私はふた口目を飲む、そこには最初のとき以上のものは何もない、三口目がもたらすものはふた口目よりも少しばかり減っている。やめにすべきだ、お茶の効き目は減少しているようだから。求めている真実が、紅茶のなかではなく、私のうちにあることは明らかだ。紅茶はその真実を目ざめさせはしたが、それがなんであるかを知っておらず、徐々に力を失いながらただいつまでも同じ証言を繰り返すだけだ——私には解釈のつかない証言、せめてお茶に対してそれをいま一度求め、そっくりそのままそれを見つけだして、決定的な解明のために今すぐ私の自由にしておきたいと願うあの証言を。私はカップをおき、自分の精神の方に向きなおる。真実を見つけるのは精神の役目だ。しかしどうやって見つけるのか? 深刻な不安だ、精神が精神自身も手のとどかないところに行ってしまったと感じるたびにかならず生じる不安だ。精神というこの探求者がそっくりそのまま真っ暗な世界になってしまい、その世界のなかでなお探究をつづけねばならず、しかもそこではいっさいの蓄積がなんの役にも立たなくなってしまうようなときの不安だ。探究? それだけでない、創り出すことが必要だ。精神はまだ存在していない何ものかに直面している。精神のみが、それを現実のものにし、自分の光を浴させることができるのだ。
「第一部 コンブレー 1」より
——マルセル・プルースト『失われた時を求めて 1 第一篇 スワン家の方へ Ⅰ』(集英社文庫ヘリテージシリーズ,2006年)108 – 110ページ
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