『失われた時を求めて 第七篇 見出された時』 – 日めくり文庫本【9月】
【9月20日】
そのとき給仕頭がやって来て、最初の曲が終わりましたので、図書室からお出になってサロンに入られても結構です、と私に告げた。その言葉に私が、自分がどこにいるのかを思い出させた。しかし、ひとりで引きこもっているときには見つけられなかった新生活へのこの出発点が、社交の集いや社交界への復帰によってもたらされたとしても、私が先ほどから始めた考察はそのことでいささかも乱されはしなかった。この事実はなにも特別なことでなかったし、私の内部に永遠の人間をよみがえらせることのできる印象が、かならずしも社交界より孤独な生活に結びつかなければならない理由はなかったからだ(以前の私はそれが孤独に結びついていると信じこんでおり、おそらく私にとって以前はそうだったのだろうし、またようやく終了したかに見えるこの長い停止期間のかわりに、もしも私が順調に成長していたのだったら、今でもたぶんそう思っていたにちがいないのだが)、というのは、現在の感覚がどんなにつまらないものでも、私のなかにおのずから類似の感覚がよみがえって、それが現在の感覚を同時にいくつもの時期に押し広げ、こうして個々別々の感覚だけのときは隙間だらけだった私の魂を普遍的な本質で満たすことがあり、そんな場合にのみ私ははじめてあの美の印象を見出すのであるが、そうした種類の感覚はこれを自然のなかで受け取るのと同様に、社交界のなかでも受け取れない理由はなかったからだ。なぜならそうした感覚は、偶然によって提供されるものだからだ。おそらく特別な興奮もそれを助けていたのだろうが、その興奮のために、私たちが日常の生活からはずれたところにいるような日には、ごくなんでもないようなものさえもが、ふだんは習慣によって神経系統から省略されていた感覚をあらためて与えてくれるようになる。芸術作品へと人を導くはずのものは、まさにこうした種類の感覚のみであるということ、そのことに客観的な理由があるのだろうか。私は図書室でずっとたどってきた思考をつづけながら、その理由を見つけだそうとした。というのも、今では私の内部で精神生活がきわめて強力に開始されたので、たった一人で図書室にいるとき同様に、サロンで招待客に囲まれていても思考をつづけることができそうに感じられたからだ。その点からすれば、こうした大勢の出席者のあいだにいても私は自分の孤独を維持する術を心得ているような気がした。なぜなら、大事件といえども私たちの精神力に外側から影響を与えることはなく、激動の時代に生きていても凡庸な作家はやはりまったく同じ凡庸な作家でありつづけるものだが、それと同じ理由で、社交会において危険なのは、ただ私たちがそこに社交的な気分を持ちこむ場合だったからだ。しかし、英雄的戦争もくだらぬ詩人を崇高なものにすることはできないように、社交界それ自体が人を凡庸なものにする力を持っているわけではないのである。
——マルセル・プルースト『失われた時を求めて 13 第七篇 見出された時 Ⅱ』(集英社文庫ヘリテージシリーズ,2007年)17 – 19ページ
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