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子猫の記憶〜連城三紀彦『一瞬の虹』(1990)

 連城三紀彦を愛読していた時期があった。

  1980年代後半のことである。

 まるで歌手のような、その名前を初めて耳にした時のシーンを、今でもはっきり思い出すことができる。85年頃だった。

 当方は20代半ば。九州の地方都市で新入社員の生活を送っていた。とりあえず格好だけはビジネスマン。少し当時の日本経済を思い起こすと、入社した80年代前半は自動車・家電などの工業製品の輸出が伸びた時代だった。就職前の北米旅行時は、日米貿易摩擦が激化しており五大湖周辺などでは日本人に対する険悪なムードがあった。そういうネガティブな風潮をひきずってはいたが、今日と比べるとそんなに先行きが暗い時期ではなかったように思う。ただ、就職活動は決して楽な環境下ではなかったし、初任給もパッとしなかった。その後、85年あたりから円高不況に陥り、「これではいけない」という雰囲気の中、内需拡大策が打ち出されバブル経済に突入。光陰矢の如し。こういった流れはついこの間のことのように思える。

 フレッシュマンの当方、仕事には不熱心な社員であった。というか、学生時代に「会社に魂は売らない」と息巻いていたこともあって、企業社会に取り込まれたことで敗北感や挫折感を抱いていたのだ。仕事の詳細はつまらないので書かない。ここでは、平凡なサラリーマン生活が始まったと書くに止めたい。

 学生時代に発症した不眠症を克服し、勤労生活も徐々に軌道に乗ってきてはいたものの、心の奥底はくすぶっていた。会社が終わると、酒が飲めないので、人通りの少ない商店街の喫茶店で、クラシック音楽など聴きながら本を読むことが多かった。週末は、ジャズ喫茶で夜を明かすことも。しかし、孤独というわけではなく、同僚や女性社員とも交流していたし、また親切な先輩たちにお世話にもなっていた。

 会社帰りの行きつけの喫茶店は、中年の品のよい女性が経営していて、新聞記者のたまり場みたいになっていた。大新聞社の支局や地方紙の記者が多く、紫煙ただよい、のんびりしたものだった。彼らは一種の文化人で、映画や小説などの話ができたので、ローカル生活駆け出しの当方にとっては、文学や芸術への渇望感を癒やしてくれるありがたい存在でもあった。

 一番親しくしていたのは、地元新聞社の整理部の記者だった。メインの仕事が夜半なので、日中(といっても夕方)はこうして喫茶店で新聞や本を読んでいると言っていた。当方より20歳くらい年上だったはず。長髪で寡黙な人だったが、同じ大学の出身ということもあって親近感が湧いたのだった。

 その整理部記者は、いわゆる「かつての文学青年」タイプだった。新しい小説にも詳しそうだったので、「最近の作家でオススメの人いますか?」とたずねると、「そうだね、連城三紀彦をよく読むよ。」と教えてくれた。その場面が、今でも明瞭に思い出される。かれこれ36年ぐらい前のこと。

 当方、小説は幅広く読む人間だった。しかし、連城氏は不知。記者曰く「推理小説が多い」とのことで、手をつけやすそうと感じ早速読み始めた。

 その後、片っ端から読んだ。面白かったし、大衆小説にしては深みがあった。特に、優美な表現に魅了されたことが大きかった。なにしろ、今をときめく流行作家であったのだ。

 上述のごとく、80年代後半になり、社会はバブル経済に突入しつつあった。振り返れば、カネ余り時代に先行するかのように、『金曜日の妻たちへ』(1983)など不倫ドラマがヒット。連城氏の作品にも、許されぬ愛を題材にしたものが少なくない。

 氏が軽薄な時流に乗ったわけではないことは、著作を読めば一目瞭然である。もっとも、深層意識のレベルで、作品が大衆の嗜好と呼応していたところはあるかもしれない。しかし、それは「結果的に」ということであろう。少なくとも、自分は時代の気分とは無縁な位置で、白紙の気持ちで氏の作品に接していた。

 代表作を思い浮かべると、『恋文』(1983)は85年に映画化もされた話題作であった。映画は、85年8月の由布院映画祭で上映され、そこで初めて視聴した次第。その他、『変調二人羽織』(1978)、『戻り川心中』(1980)、『宵待草夜情』(1983)などは意欲作であり、繰り返し読んだものだ。アパートの6畳には、連城作品が積み上げられていった。

 当方、86年に九州から大阪に転勤。その後も、連城作品を読み続けた。

 しかし、どうしたわけか1991年を境に、作品への関心が急速に失せてしまった。その年は、予期せぬ結婚をした年でもある。バブル経済はすでに崩壊。翌年には、大阪から東京に転勤。仕事が一段と忙しくなったこともある。そのうち、子供も生まれた。

 多数所有していた連城作品も手放してしまい、あまり惜しいとも思わなかった。それから約30年。同氏作品を手に取ることはなかった。連城三紀彦氏との付き合いはほぼ5年で終わったのである。

 ところがこの12月、『一瞬の虹』という薄い文庫本が、偶然古書店で目に止まった。連城氏のエッセイ集である。店頭でパラパラめくっていると、11月9日に亡くなった瀬戸内寂聴さんとの交流を綴った一文を見つけた。この文章にはおぼろげながら記憶があった。おそらく当時、どこかで読んだのだ。もしかすると、本を購入していたのかもしれない。単行本の出版年が90年だから、まだ当方が読者を止める1年前。

 懐かしくなり、久しぶりに連城作品を購入することにした。

 さて、上に述べた瀬戸内さんとの話「山門の明かり」をはじめとして、連城氏の味わい深く、その流麗な筆致を追っていくうちに、ハッとする箇所にぶつかった。

 「安心」という題の文章の途中、生まれたばかりの子猫を拾ってくるエピソードの部分である。(引用は新潮文庫『一瞬の虹』1994年、P130~131)

 十年ほど前、生まれたばかりらしい子猫を二匹、家に拾ってきたことがある。   

 夕暮れ時に家の近くのくさむらで今にも死にそうなか細い声で鳴いていたのだ。

 猫は生んだ(ママ)子供が育たないとわかると見棄ててしまうらしい。母猫だけでなく飼い主にも見放されて捨てられた猫らしかった。拾ってきてもすぐに死にそうだったが、明日の朝病院に連れていけば何とかなるかもしれないという気もちがあった。

 その晩一晩寝られなかった。

 台所にダンボールを置き牛乳の皿と一緒に入れたのだが、まだ牛乳の飲み方も知らなかったのだろう、皿を近づけてやっても小さな口は鳴き声をあげるだけだった。真夏だったせいなのか、汗でびしょ濡れになり、水分がどんどん蒸発して体が小さくなっていくのがわかる。汗が出るたびに体が冷えていくのだろう、二匹の猫は寒さを庇い合うように何度も小さな体を重ね合った。

 本当に小さな猫だった。脚なんか糸のように細かった。いろいろ手を尽くしたがどれも役に立たず、ただダンボールを覗きこんでいることしかできなかった。

 夜明けごろににまず黒い方の一匹が死んだ。死んで体が冷たくなってしまったのがわかるらしく、もう一匹の茶色のぶちはその体を離れ何とかダンボールを這いあがって外に出ようとする。

 外に出してやると糸の脚をもつれさせながら歩きだしたのだが、結局一メートルも進みきれずテーブルの下まで来てふっと動かなくなった。小説風に書けば、真夏の朝の、真っ白い眩しい光の中での、小さな死だった。

 驚いたのは、当方がこれに酷似した体験をしていたからだ。

 当方の体験は、大阪に転勤後、そして結婚前のことだから、1986年から1991年の間あたり。連城氏の体験時期とは隔たりがあるが、執筆時期とは重なっている。

 氏のシチュエーションと違うところもある。当方の場合、交通事故で死んだ母猫の横で、か細い声で鳴いていた子猫をアパートに運んだのである。公用で外出し、夕方会社に帰り着き、事務所内に入ろうとしたときだった。ビル前の歩道に血まみれの猫が横たわっていた。車にぶつかって死んでしまい、死体は歩道に移されたのだろう。ところが、亡骸のはずなのに、助けを求めるような鳴き声がわずかに聞こえてくる。近づいて見ると、本当に小さな、毛のない子猫が鳴いているではないか。母親の裂傷から這い出してきたのだ。もう数匹、母親の体に残されていたのかもしれないが、鳴いていたのは一匹で、その一匹を連れ帰った。

 連れ帰ってからの状況は、連城氏の描写に極めて似ている。当方もミルクをあげたが、飲もうとはしなかった。小さくて小さくて、連城氏も言うように、「脚なんか糸のように細かった」のだ。しかし、母親のお腹から這い出して来るほどの生命力を持っていたわけだし、また、連城氏の子猫と同じように、何とか移動しようとするところにも希望が持てた。そんな元気な子だから、翌日病院に連れて行けば、なんとか助かると考えたところも連城氏の気持ちに同じだった。

 当方も、ダンボールの中の小さな生命を一晩見続けた。が、早朝まだ暗い刻(とき)だった。急に鳴き声が止み、消え入るように亡くなった。

 30年以上前の話である。

 上記引用文に続いて、連城氏は子猫の記憶を、10年ほど前の小説を書き始めた苦しい時期にダブらせて語っている。

 しかし当方の場合は、いつも子猫のことを第一子の誕生に重ね合わせてしまう。「誕生」という言葉は正確ではないかもしれない。なぜなら、長男は死んだ状態で生まれてきたのだから。つい1週間前までは、胎内で動いていたのに、である。1993年のことだった。

 子猫の記憶に重ね合わせて思ってきたのは、子猫がたとえ数時間であったにせよ生命を持った存在として外界に現れたのに、なぜ我が子の方は母親の体の中で亡くなってしまったかということ。

 長男には、30分しか対面できなかった。小さな体は霊安室の細いベッドに横たわっていた。くせ毛の黒髪が当方にそっくりだった。しかし、どのような顔をしていたかがどうしても思い出せない。なぜだろう。

 生きていた、死んでいたの差はあるにせよ、子猫にも、長男にもほんのわずかな時間、会うことはできたのだ。そのことに感謝しなければならない。今ではこう考えられるようになっている。

 幸い長男の二人の妹たちは、これまで大病することもなく成人している。娘たちには常々、「お前たちが元気にしてこられたのは、お兄ちゃんのおかげ」と説教している。

 この度、連城三紀彦氏の文章に接し、改めて子猫と我が子に思いを馳せることができた。

 生きて姿を見せること、死んで姿を見せること。そこにある違いは何だろうか。この問いには答えを見出だせないまま、当方も枯れていくのだろう。そう考えながら、年末の寒い一日を過ごしている。