コロニーの迷い人〜アンソニー•ミンゲラ監督『イングリッシュ•ペイシェント』(1996)
アンソニー•ミンゲラ監督の『イングリッシュ・ペイシェント』は、もはやクラシック殿堂入りとも言うべき映画である。公開からすでに四半世紀余り。展開の中で時折り見られる、ザラザラした画面粒子がデジタル時代との隔絶を示す。
公開時には劇場で。その後レーザーディスクを経て、近年は再放送のテレビ画面で繰り返し見ている。だから、「何を今更感想など」といった感もある。最近また衛星放送で視聴し、直後に原作を読み返した。我ながら、なぜこんなにリピートするのか、と不思議に思い、振り返りの気分になったのである。
本作、当時アカデミー9部門を受賞。同賞が必ずしも作品の質を保証するとは思わぬが、「9」という数はかなり異例ではないか。
概括的に述べると、ストーリーはもちろん、映像や音楽などがオーソドックス、配役も手堅い。各要素が水準以上で、全体的にバランスがよい。
逆に言うと、さほど突出した特徴があるようには見えない。強いて言うなら、公開当時は映像中の「イギリス人の患者」の姿が、痛々しくショッキングだったかも。しかし、大筋は平凡なメロドラマと言えばそれまでである。
主人公オルマシーを演ずるレイフ・ファインズは、フィルム媒体を通しても清潔な美しさが分かる。特に印象的なのは瞳。2つの青い眼球から、刺すような2本の直線が、愛するキャサリンのグリーン・アイズに伸びていく。女優の方は、そのキャサリン役のクリスティン・スコット・トーマス、看護師のジュリエット・ビノシュの2人が、全盛期とも言える輝きを放つ。
上空からの砂漠の景観は、ドキュメンタリー番組の正確な画像とはまた違う趣き。あの『アラビアのロレンス』とも違う。自然美というより人工美を意図的に強調するかのよう。風紋の大地が延々と続く。
文学作品がベース。原作は、スリランカ人作家のマイケル・オンダーチェ。映画では、ヘロドトスやキプリングなどの挿入が格調を高めている。キャサリンが残す手紙も、純文学そのもの、哀しい物語に相応しい。
本作、第二次大戦のアフリカ大陸とイタリアが舞台である。主人公オルマシーはハンガリー伯爵の身分を持つ知識人。英国とドイツの狭間にあって、ハンガリー人の立場がどっちつかずでもあり、他方まだしも自由を享受できる境遇にあるように映る。
さて、最初の疑問に戻る。なぜこの映画を繰り返し見るのか。
おそらく本作が、戦禍の時代背景や気候厳しい植民地というネガティブな環境下、男女愛を素朴かつ官能的にクローズアップしているからだと思う。
キャサリンは、砂漠を好まぬ西洋の異邦人である。自分の葬儀は異国で行われてはいけない、故国イギリスでの埋葬か理想と語る。この場面で思った。まだまだこれからという若い女性に、このように語らせてしまう。この時代はやっぱり淋しい、虚無的過ぎる。
2人の迷い人は、閃光に目がくらむ。宝石は手のひらから、こぼれ落ちてしまう。それが情事の限界だったのだ。
本能は時として、制度を蹂躙する。これもまた、目新しいテーマではないのだが……
監督や作家のモチーフは分からぬが、20世紀の終わりに、セクシュアリティの原型を見直す作品が登場したということか。21世紀がだいぶ進んだ今、ぼんやりとそんな感慨をおぼえる。
作品には、一定のパワーが保持されている。悪あがきの力と言ってもよい。許されぬ恋人たちが公衆に晒す純情が、単純に訴えるのである。
なお、ハンガリー伯爵と英国人女性の愛だけでない。ジュリエット・ビノシュ演ずる看護師をめぐる感情の揺らぎにも、焦点が当てられている。これが、ストーリーを一方的に暗いものにせぬ効果を上げている。
というわけで、これからも映画及び原作をリピートすることになると思う。原作は、翻訳文が少し読みづらいかもしれないが、若い読者に是非味わってほしい。映画は、大きめの劇場が望ましい。フィルム上映を、強くリクエストする。