ユー・アー・マイ・エンジェル〜後藤竜二『天使で大地はいっぱいだ』(1966)
老いたら、児童文学を楽しみたいと考えていた。いつの間にか、その入り口に立っている。
後藤竜二氏の『天使で大地はいっぱいだ』は、数年前に古書店で見つけ、自宅本棚に積んでおいた。児童向けだが文庫本である。昨年2022年の6月、1週間ぐらいで読み終えた。
本稿は、その頃ほぼ書き上げていたものの、リアリズム論についてアレコレとまとまらず、1年間放り出していたものである。現時点でもリアリズム論はよく理解できていないと思うが、敢えて文章を公開する。
本作品、今日でも鑑賞に耐え得る、良質の児童文学だと思う。1966年の第7回講談社児童文学新人賞の佳作を受賞している。作者は、当時20代前半の若手。みずみずしい感覚は、今の時代にも通用するのではないか。
1966年、当方は小学校低学年。したがって、6年生の主人公サブは、自分のお兄ちゃん世代である。舞台は、北海道は石狩川沿いの地域である。
作品舞台の風景について、後藤氏は次のようなスケッチを行っている。
時代背景は、わが家族が大阪から横浜へ引越した直後ぐらい。“とき”の重なり具合はあるが、生育環境は大きく異なる。当方、東西日本のゴミゴミした街中に暮らしていた。
この本、もしかしたら50年以上前に読んでいるかもしれない、と思った。当方の母は本好きで、子供向けの話題作をけっこう買い与えてくれていたのだ。もちろん記憶はない。しかし、懐かしい気持ちが「読んだかな?」と思わせてしまう。
物語は子供向けながら、「リアリズム児童文学」の範疇に入るそうだ。時代、場所、登場人物などの設定は具体的で、確かに臨場感がある。リアリズムと言われれば、そうかな。ただ、そもそも「リアリズム」とは何か?それが、よく分かっていない。
70年代に発刊された、上記文庫本の裏表紙には、こんな紹介が。
大筋間違ってはいないが、無難な説明。また、キリコ先生中心の展開というわけではない。あくまでもサブがメイン(ジョークではない)。スタイルも一人称の独白体である。
もちろん、リアリズム児童文学などという説明は概要には見られない。
リアリズム文学とは、教科書的説明をすれば、「現実を捉える文学であり、写実的手法を用いた作品」ということだろう。日本文学にも数々の名作がある。物事を客観的に描写する写実主義と、リアリズムはオーバーラップする。ただし、「リアリズム」のカテゴリー解釈は一様ではないようで、理解を超える。
とはいえ、「リアリズム」では、「現実」をどう捉えるかがポイントだろう。
児童文学者・古田足日氏は文庫の解説で、作者の後藤氏と「リアリズム」について口論したことがあると述べる。議論の詳細は不明である。
古田氏は、上記の教科書的説明にある「現実」という言葉を用いて次のように説明している。当方、「現実」は「リアリズム」に関接した用語であろうと解釈した。(以下、太字化は当方の処理)
「現実」は、先行する「書きたいという思い」を基準に取捨選択された「さまざまのことがら、行為」によって一つの世界をつくりあげる。古田氏は、「何を書くかという段階ですでに取捨選択は行われている」と断定する(同上181頁)。
作品世界の構築にあっては、そのような取捨選択だけではなく、「ことがらはすでに作者によってある程度意味づけされている。作者はまた、取りあげたことがらを変型させる。また、現実では無関係におこったことがらを接続させる。」(同上181頁)と事柄の客観性には否定的とも言える見解を述べている。
古田氏は続ける。ちょっと難しいことをおっしゃっている。
作者の創作活動によって作品世界に現れてくる「現実」は、俗世を書き写した「現実」(上記引用では「現実生活」となっている)とは異なったものになる。意味づけされた「現実」は、「写実」を超えた何物かである。もはや「本質」や「実体」といった言葉で表す方が分かりやすいかもしれない。
「本質」や「実体」の追求は、超歴史的・普遍的なもの、すなわち真理を希求する営みではないか。作品は、歴史制約性の中で、あるいは地域個別性の中で、普遍性獲得に向かう。本作品でも、個別性とユニバーサリティという、アンビバレントな両性を具有する「主義」が顔を出す。
例えば、こんな箇所。
サブの家は、農業を営んでいる。
キリコ先生は「あたりまえ」と思ってはいない。一方で、サブは「あたりまえ」と思っている。
しかし、サブの常識は、あくまでも地域個別性ので範囲内で妥当するものだ。作者はその個別性や時代性には自覚的で、そういった特殊性に敢えて抗するかのように、ここで「子供は家の仕事を知るべきだ」と、正当性を主張するのである。
確かに、「リアリズム」は古田氏の言うように、一見客観的に存在する事柄に対して、作者が意味を付与する芸術観と説明するのは可能だ。客観的であることと、普遍的であることとは、言葉の上では区別されるが、分かち難く結びついている。
しかし、作者の意図を「普遍的」「本質的」、あるいは「実体」と呼ぶには抵抗感がある。写実され、さらに補強された事柄や行為は、すでに現実生活とはまた違う主観性や特殊性を帯びているからだ。「リアリズム」に、作家の思想がつきまとい始める。これが児童対象の文学の場合、ある種の「恐さ」が伴なう。
家の仕事を知るべきという主張は、普遍的でも正当でもないのである。
上記で「恐さ」という言葉を使ったとおり、この命題を子供向けの読み物で、「リアリズム」といった衣をまとって見せられると、ややこしいことになってしまう。
ここで、大人並みの正当性を放射する物語を、子供のために救い出すために、「リアリズム児童文学」の「児童」という部分について、少し立ち止まって考えたくなった。
古田氏の見解からは、どうも「児童」の意味がつかみにくい。氏は、児童文学であっても、読者を子供・大人の区別なく想定しているようなのである。
つまり氏は、リアリズム一般論を語っているのであって、児童文学の「児童」というところの輪郭がボンヤリしているのである。
後藤氏に戻ると、冒頭述べたように、本作はみずみずしさを感じさせる出来上がりとなっている。こういった、フレッシュな感覚があるかどうかが、児童文学の必要条件ではないか、という印象を持った。
後藤氏は、リアリズムに軸足を置きながら、子供の世界を描き出すことにこだわっている。
なるほど本作には、リアリズムの部分であろう、時代背景らしき描写が見え隠れする。
例えば、サブの1番上の兄貴、ノブさん。
何やら、大学紛争の背景を示唆している感がある。
「第3章 名なしのゴンさん」には、よそ者として現れた男性のゴンさんが、このように語る場面もある。サブが朝刊を渡すと、彼は吐き捨てるように言う。
サブの家族や町を取り巻く世界を、端的に説明している箇所である。牧歌的な世界は、それだけでは存立しない。
サブにはまだ見えていない、こうした現実世界を踏まえての話だろう、ノブさんが、サブに説教する場面がある。
この主張の背景には、明らかに戦後労働運動の高まりがある。大人の世界が児童文学に顔を出すと同時に、その世界への対峙の仕方が説かれている。
また、先生であるキリコが説教する場面もある。次の2つには、戦後の平等思想、反競争(競争社会のアンチとしての)の考え方の影響が垣間見える。
以上見てきたように、本作では、現実社会を前提としながら、それを写実的に描くということではなく、現実から一定の指針や思想が取り出されていることが分かる。
後藤氏のこの作品に抵抗感を覚えるのは、このあたりだ。
当方が児童文学の特性と考えるところは、月並みだ。
子どもたちが汚濁にまみれた世界に囲まれていても、純金をすくい上げるような美を獲得できているかどうかを提示するのが、児童文学作品の存在意義である。読者は、やはり児童がメインであろう。もちろん、大人が読むに耐えるものが望ましい。
このあたり、昔言い尽くされた見方なのだろう。幼児文学の審美主義、といったところだ。
恥ずかしながら、後藤氏の児童文学論がどのようなものだったか調べていないし、古田氏の著した児童向け作品との比較も行っていない。だから、ここでは後藤氏の作品が、文学論的に古田氏とどう異なるかは論じ難い。
それにしても、はっきり分かるのは、『天使で大地はいっぱいだ』は、作者が意図したかどうかはともかく、ピュアなスピリットを獲得した成功例ということだ。
現実世界の描出だけが児童文学の意義ではない。思想や道徳の抽出も中核ではなく、周辺の要素だ。
純粋性、新鮮さ、生命力垣間見える放つリリシズムを感じさせ、子供たちが未来を活き活きと生きていくために必要な、幸福感あふれる美意識の醸成に寄与できるかどうかが、子供の物語と大人の小説の「分け目」と考える。
これは特に、低年齢の児童向けの作品に当てはまるのではないか。
こうしたみずみずしさは、目に見える部分としては、文体(『ライ麦畑でつかまえて』の野崎孝氏の訳文に似ている。)や、それこそ写実主義的な自然や風物の描き方から湧き出て来るものだ。
そしてその獲得は、作者の才能や努力によるところが大きいのはもちろんだが、それだけで完成するわけではない。
物語が内包する様々な要素が偶然に、有機的に、そして美的に融合して初めて、作品世界が形造られるのである。
そして、子供が楽しむ作品には、大人のリアリズムが侵食できない絶対領域がある。
以上、児童文学にはズブの素人の、独り言と聞いてもらえればよい。