臨界の先〜井上靖『風濤』(1963)
今年は、『敦煌』に続き、『楼蘭』(短編集)、『蒼き狼』、『風濤』と約50年ぶりに井上靖の「西域小説」を読み耽っている。
『風濤』は『蒼き狼』の姉妹編とも言うべき作品。両著作は、モンゴル帝国膨張に伴う、13世紀ユーラシア大陸の民族興亡を描く。漢語を練り込んだ硬質な文体を基礎に、しっかりした屋台骨によって歴史をダイナミックに再構成した小説である。
しばしば文語文が顔をのぞかせ、決して読みやすい文章ではない。特に、今の若者には難儀であろう。当方、これを中学時代に手に取ったが、おそらく細部は理解できていなかったはず。それでも、骨太な構成が醸し出す風格に魅了された。
『風濤』は、「元寇」の物語と紹介されがちである。当たっていないことはないが、正確には二度に渡る日本侵攻を節目として描かれた、朝鮮半島が主舞台の物語である。メインとなる内容は、高麗と元の国家間の駆け引きである。サムライと蒙古兵との戦闘場面は、意図的にであろう、大幅に省略されている。
『風濤』は合戦にフォーカスしていない。焦点は、世祖フビライによる侵略・支配に翻弄される朝鮮半島・高麗上層部の苦悩にある。『蒼き狼』の方も、戦闘場面がメインではなく、チンギスカンの版図拡大を淡々と叙述しながら、他部族や他国家とのやりとりをうまく取り込んでいた。『風濤』になると、被支配者側の苦役や一喜一憂などに一層力点が置かれ、立体感と深味が増している。
物語の構成要素としては、『風濤』では、国民を守るために苦慮・奮闘する半島の王と宰相、同じ高麗の民でありながらフビライの代弁者となる武将、内乱、民族同化、経済的搾取などを浮かび上がらせている。それらのエレメントを、軍事を軸として書き込んでいる。
特に、登場する女性の姿は『蒼き狼』同様に印象に残る。高麗・忠烈王に降嫁したフビライの娘・クツルガイミシの烈しさは、『蒼き狼』の忽蘭(クラン)に通じるものがある。
忽蘭は、鉄木真(テムジン、チンギスカンの幼名)が打ち破ったメルキト族の人で、彼の側室となる美女である。
『蒼き狼』の中で、チンギスカンが忽蘭に対して、ホラズム侵攻について意見を質すシーンがある。忽蘭は、他の誰よりも出兵を勧める。
忽蘭は忠言する。
忽蘭は、烈しくも次のように要求する。
忽蘭の「ただ一つのこと」が何かは、ここでは明かさない。井上氏は、忽蘭を支配欲の人間と見ていない。戦いを求める狼の血族の一員とみなし、物語終盤ではチンギスカンをして、忽蘭は「そこに行われる烈しい戦闘がほしいのであろう」(374頁)と言わしめている。
『風濤』の高麗王の妃・クツルガイミシもまた、烈しい人物である。
クツルガイミシは、夫を鞭打つことさえある。
ただクツルガイミシの場合、その影響力は激烈な性格からと言うより、フビライの子であるという強力なバックボーンから来る。
忠烈王との結婚は極めて政略的なものであった。王は、降嫁の国家へのプラス・マイナスを計算している。鞭打ちを我慢できたのも、お国のためだ。
元の重圧が続く中、高麗の宰相たちも忠烈王と同じ気持ちを抱くようになるのである。
忽欄とクツルガイミシ。片や戦争をあおり片や戦争を抑止する、といった二人の女性の影響力の対照性に井上氏の関心のありかを感じた。つまり、女性をいつも戦争の被害者として登場させるパターンを脱している。支配層に属しながら、女性がプラスに、あるいはマイナスに大きく国事に関わるケースもあるのだと言いたかったのであろう。
さて、井上氏は『蒼き狼』の新潮文庫版のあとがき「『蒼き狼』の周囲」で、「私が一番書きたいと思ったことは成吉思汗のあの底知れぬ程大きい征服欲が一体どこから来たかという秘密である。」(436頁)と述べている。そして、「ヒットラーが世界制覇の野望を持っていたというような場合とは、事情は全く違うのである。」(436頁)と付け加えている。
また、『風濤』の新潮文庫版の解説で、篠田一士氏は「(作品の)意味付けに窮した一部の批評家たちは、高麗の惨状を米軍占領下の日本のそれになぞらえた、一種の寓意小説であると論じたが、牽強付会もいいところだというしかあるまい。」と当時の解釈に苦言を呈している。
確かに、ナチスでも米軍でもないのだろう。しかし、発表から60年を経て、『蒼き狼』と『風濤』の2作品は時間のフィルターで濾過されてきたと言ってもよい。著作が命脈を保っているのは、現代世界でも一向に侵攻や侵略は止まないという現実があるからだ。井上氏は、『蒼き狼』の上記あとがきで「英雄の英雄物語を書く気はなかった」(436頁)とおっしゃっている。しかしながら、「底知れぬ程大きい征服欲」の秘密の源泉を、指導者の動態とそれを取り巻く情勢に言わば限定的に求めた、その「限定」は今となってはどうなのか。
現代において、その秘密を征服者とその人物を取り巻く情勢や環境に限定することには、さほどの意義はないのではないか。モンゴル帝国から何百年もの時間が流れ、むしろ、チンギスカンに始まり、元の帝国、ナチス、フロンティア・スピリット、そして目下進行中の侵略などに一貫して流れる征服欲の根源をつかみ取る営為が求められていると考える。いや、征服や侵略の始祖は、チンギスカンよりもっと長い年月を遡ることができるはずだ。「底知れぬ程大きい征服欲」は、何千年も潜伏して生き延び、時々姿形を変えて出現するのだろうか。
『風濤』では、フビライから派遣されている屯田経略使・忻都(ヒンド)が、高麗の宰相・金方慶に対して、自身も属する蒙人を語る場面がある。
もちろん今の時代、天命などという正当化は通る話ではないし、井上氏もこれが「底知れぬ程大きい征服欲」の秘密を解き明かす鍵とは考えていないだろう。ここでは、民族それぞれが異なった色彩を放ち、モンゴル人がたまたま「殺戮」という業を担ったという説明を知れば足りる。忻都には、人の道を外れた行為への呵責が透けて見えるが、だからといってどうしようもない、何らかの理屈付けをせねば収まらなかったのだろう、と同情的な解釈もできる。
忻都の言い訳は、13世紀だけの歴史的制約性の所産であろう。天命は一つの方便であって、時が変われば名も変わる。正当化や大義名分の現れ方は様々でも、絶対悪の本質は変わらない。
『風濤』解説で、上記の篠田一士氏が興味深いことを述べている。
井上氏は「時間は広々漠々たる空間のなかへ吸収されてしまい、その用を為さない」世界を現前させようとした。それは、チンギスカンとフビライが実現を目指した空間でもある。
チンギスカン、フビライが背負ったのは、この人がうごめき、殺戮を繰り返す時間の世界からの離脱だった。彼らは、広漠たる空間への回帰を本能的に目指したのだ。そこに自覚はない。意識はない。あるのは本能だけだ。おそらく、通時を一方的に破壊し、共時的世界の完成を目指してひたすら辺境へと走っていたのだ。辺境は臨界と言ってもよい。臨界の先に、落ち着ける場所があると錯覚していたのだ。
そう、錯覚なのだ。
小説『風濤』というタイトルは、風と波が吹き荒ぶ海に「底知れない程大きい征服欲」の膨張の先端を象徴させている。しかし、フビライはその臨界の先には進めなかった。臨界を越えたとしても、時間を排除した平穏な世界はなかったはずだ。越境先にはより悲惨な殺戮と分裂が続いていただけだったのだ。「元寇」の失敗、それは「時間の神」の裁定だったのだ。
2023年11月、約40年ぶりに都内某所でジンギスカン鍋を賞味した。意外にも、学生時代、北海道旅行中に食した頃と比べ、料理内容・値段ともに高級化。当時、一緒に旅行したその友人と、ビール片手に「うまい、うまい」とパクパク頬張った。美味しいとは言うものの、40年に一度しか口にしない当方は、やはり遊牧の民ではないな。札幌のジンギスカン店を思い出しながら、定年生活を謳歌する友がせっせとラム肉を口に運ぶ姿を見つめていた。