【適応障害になった大学生】 春の味覚のふりをする「てりたま」と愛されている私。
某ファストフード店で3年も働いていると、期間限定メニューで四季を感じることになる。
食欲の春夏秋冬。
今年も、「もうてりたまの時期か〜!春だねぇ〜!」なんて会話をしたのだけれど、そもそも「てりたま」は春の味覚なのか?
いかにも「春の顔」をして毎年登場するけれど、君はちっとも春らしくない。
もしや私は毎年、「てりたま」の手の上で踊らされているのか…(!?)
なぜ君を食べると春を感じるのだ…!
おかしい!!君は全く春っぽくないのに!
そうは言っても、「てりたま」は美味しいので食べる。体に良くないと言われても、私が食べたいから食べる。
美味しいものは美味しい。
最近はほんっとうに食欲がない。
一日中ご飯のことで頭がいっぱいな私が、「食べたいものが浮かばない…」「お腹は空いたけど食べるのがめんどくさい…」と感じるようになった。
これは重症!!!!
そんな私の家の冷蔵庫には、超大量の野菜ジュースが陳列されている。
「食事を削ってまず最初に排除されるのは野菜かと思って!」と、友人が紙袋いっぱいの野菜ジュースを背中に担いで持ってきてくれた。
なんて気の利く人なのだあなたは…!
私の周りの人たちは、あまりに優しすぎる!
私の世界には釣り合わないほど優しい。
そして、最近はその優しさに甘えきっている。
いや、やっと甘えられるようになった。
私は人に優しくされる価値のない人間なのだと、ずっと思ってきた。
自己肯定感があまりに低い。
このことについてはまた別で書きたいなぁと思っている。
しかし、どんなに私が私のことを価値のない人間だと思おうと、優しくない人間だと思おうと、周りの人は私に優しい。大切にしてくれるし、生きていてほしい、笑っていてほしいと言ってくれる。それは愛だ。
私が私のことを嫌いなことも、みんなが私を愛してくれることも、どちらも事実なのだ。
私が正しいと思おうと、間違っていると思おうと、みんなこのどうしようもない私を好いてくれているのだということを、まずは受け入れてみるところから始めよう。
もしかしたら、「てりたま」が春の味覚であるかどうかなんてものはどうでもよくて、それを食べたときに感じる「春だねぇ〜」という感情こそ尊いものなのかもしれないな。
日々を慌ただしく過ごす中で、一度立ち止まっていま自分たちのいる季節を確かめる。
そして、「春だねぇ〜」と言ってみることで新しい何かがそこから始まる気がする。
そんな気がするだけ。
でも、そんな気がすることが大切なのだと思う。
いまは私は人生の中で立ち止まっている時間。
さて、「愛されてるねぇ〜」とつぶやいてみようか。そうすることで始まる何かがあるのかもしれない。
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