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雑記 : アンナとかノラとか
・『お菓子とビール』を読み進めています。モームは時々、『アンナカレーニナ』を称賛するような文章を書く。破滅的な思考回路を持つ女性の恋愛や、その内面をしつこいくらいに描いていて、とんでもない傑作だと思いますが、暫く恋愛の話なんて見たくも聞きたくもないと言う気分になります。
・日本版の舞台も観た。宮沢りえさんのアンナが素晴らし過ぎて身がすくみました。観劇中、ずっと怖かったな。ホラーとか、ミステリーとは違う、ドンドンドンドン、と心臓の内側を殴られている様な、首を絞められているかの様な、そんな恐ろしさがあります。女性が見ると、だと思いますが。男性が見たら、アンナにうんざりするんじゃないかなぁ。
・ふと思いついて、アンナカレーニナについての感想を少し読みあさってみた。すると、「ヴロンスキーとの運命的な出会い」が不幸の始まりと表現している人も多くて、やっぱり読む人によって感覚が全く違う!と驚き、面白かったです。
・「どう考えても」こうだろう、というような考え方に対して、一人一つしか持ってない同じ頭を使って考えていたら、「どう考えても」同じ答えになるのは当然だというような考え方が好きです。
・わかりにくい言い回しになってしまった。つまりは、自分から見て絶対に正解がこれだ!と思っても、それがみんなの正解だと思ってはいけないと言うことですね。それが顕著に現れるので、わたしは人の読書感想を読むのが好きです。わたしとは違う、誰かが考えた、その人にとっての正解を見るのが好き。頑固な脳の神経がふにゃふにゃと柔らかくなる感覚。
・わたしは、アンナとヴロンスキーの関係は、運命的な出会いなどではなく、アンナが行動するためのきっかけに過ぎなかったと思っている。ヴロンスキーが現れなくても、アンナはきっと不幸だった。退屈な、愛のない家庭での生活から逃げたいと心の中では思っていた。そんな中偶然出会ったヴロンスキーに依存し、愛という大義名分を得て、その名のもとに気に入らないもの(自分自身を含めて)全てを破壊した。
・退屈や不満から逃げるために「愛」を利用すると、誰でもこうなるという現実を見せつけられているかのよう。いや、愛には限らないかもしれません。自分以外のものに依存すると、自分自身のコントロールを失い、破滅への道を辿る可能性があるぞと、そういう感じでしょうか。このような意味では、女性に限らず、誰でもアンナになりうるのかもしれません。なんと恐ろしいこと。
・同じような境遇で全く違う選択をした女性として、わたしはイプセンの『人形の家』ノラを思い出します。ノラは、「全てを捨てて家出をする」という選択をし、自分の人生の舵を取り返す。一人で未来を切り拓いてゆく。
・作品が描かれた当時は、どちらも「女性の道徳的逸脱」として捉えられることが多かったそうです。アンナの不倫は、そもそもキリスト教に反していたし、ノラも妻としての責務や、子育ての責任の放棄として、非難された。「ノラが家出をして、戻ってくる」結末に書き換えられて上演をされたこともあるそうで、わたしは特にフェミニストではないし、女性の社会進出が素晴らしいものだと両手をあげて叫べるような人間ではないので、強くはなんとも言えませんが、んー、そこまでノラを非難する心は理解しにくいなぁと思うところです。
・少なくとも、自分の人生の舵は自分で握るんだ!というような思い切りとか心意気みたいなものは、わたしは凄くかっこいいと思う。そういう人って、うまく行かなくてもアンナみたいに他人を責めたりしないんだ、きっと。
・モームは、実はあんまり『人形の家』はよく思っていなかったんじゃないかなぁ?と思う節があって、それもまた気になるところ。読書をしていて、はー、直接聞けたらなぁ、と思うことが多すぎる。亡くなってしまった作家たちと会話ができるAIみたいなものが開発されて欲しい、なんて思ってしまいます。
・人の内面が詳しく細かく描かれているから、わたしは純文学という類のものが好きなのかもしれない。作家の描く人間って面白い。自分とは全く違うように見えるキャラクターでさえ、それでもどこか、自分と共通する何かをを見つけてしまうような気になる。