在野研究一歩前(33)「学究メモ:震災と活字①」
私は先日、日本文学好きの友人と小説家志望の友人との三人で、「あること」を中心テーマとして書かれた書籍について、長い時間語り合った。
会場は、友人の自宅。自身の「お薦め書籍」を持参することが、参加の条件(?)である。
「あること」とは、2011年3月11日に起った「東日本大震災」である。
友人二人と私は、ともに九州出身で、震災が起こった当時、ほとんど被害を受けることはなく、学生生活を続けることができた。学校で、授業を受けたり、昼休みを楽しんでいる際に、「こんなことをしていていいのだろうか……」と罪悪感を覚えていたのを、今でも思い出す。
今回は「3・11」の前後に、地元時代の友人と会って話せることが分かったので、少しこじつけになるかもしれないが、一度「東日本大震災」をテーマとして「本好き談義」を行おうと決めたのである。
私は「本好き談義」の準備として、自身がこれまで読んできた「東日本大震災」関連書籍を確認しにかかった。興味のある本を、とくに順序も決めずに読み漁ってしまう自分は、
「もしかすると、一二冊ぐらいしか読んでいないかもしれない」
と、不安な気持ちが頭を掠めたりもしたが、意外なことに整理しなおしてみると、少なからず読んでいることが分かった。
そのとき、一つの事実が見出せた。それは、「2011月3月11日」以後、「東日本大震災」を中心テーマとした書籍が多く出版され、一つのジャンルとして確立しつつあるということである。いや、もはや「確立した」といっても差し支えない。
上記のジャンルの内、主に「文学」を指すものとして、日本文学研究者の木村朗子は〈震災後文学〉(『震災後文学論 あたらしい日本文学のために』青土社、2013年)という言葉を提起する。木村はこの言葉を通した文学研究の試みにより、「震災」を語ることの困難さと向き合う「文学」の在り様を見つめ続けている。
「震災後」を生きる私が、「震災」自体を見つめ直したり、または自身が「今を生きる」ことの意味性を考えたりする際に、その「契機」となるもので最も身近にあるのは「書籍」である、と私は考えている。様々な人間によって示された「「震災」を通じた表現」に触れることによって、「震災」について考え続けることができる。
「3・11」時に、「東日本大震災」の被害をほとんど受けることがなかった自分は、せめて「低俗な傍観者」に落ち込むことがないように努めなければならない。
今回のnoteでは、先日行った「本好き談義」の中で取り上げた書籍について、「学究メモ:震災と活字」という形で数回に分けて纏めていければと考えています。
恥ずかしながら私は、その「取り上げた書籍」の内の半分以上が未読であり、読んでいるものであっても、その内容が充分に掴めているかというと自信がない状況にあります。
今回の纏めは、多くの人と「震災」関連書籍の情報を共有したいという希望に加え、上記の残念な自分に鞭打つためのものでもあります。ぜひお読み頂き、種々のご意見を伺えればと思います。
それでは次回より、メモに毛が生えた程度のものになるとは思いますが、纏めていきたいと思います。
以上で、「学究メモ:震災と活字①」を終ります。ご覧頂きありがとうございました。