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古本市のない生活⑧「古本であることを隠す」

これまで新入生から持ち込まれた悩みのうち、もっとも多いものは「講義のテキスト」に関する相談である。
これは「このページの記述が……」といった内容に纏わるものではなくて、「テキスト購入」についてのものであった。
大学では、1回生から学年が上がっていくごとに、受講数が減っていくことが一般的で、その分購入すべき参考書の数も減っていく。ということは、1回生時が最もテキストを購入する学年になる可能性が高いということだ。
1回生の子には(とくに自分に声をかけてくる、奇特な学生には)、経済的に余裕がない人が多く、テキスト購入時にはまだバイトを十分に行えていない場合が多い。その中で、結構な額のお金を準備しなければならない「テキスト購入」は、学生の大きな負担となることは否定できない。

そこで私が(小声で)アドバイスするのが、「古本屋でのテキスト購入」である。ほんとうは「新品で買え!」と叫ぶべきなのだろうが、まだまだ金銭的に余裕がない新入生さんたちに対しては、積極的に「古本屋まわり」をすることを勧めている。(ここには、「少しでも、古本好きの後輩さんが増えてくれたらいいなー」という裏の意図がある。)

今回は、作家・高見順の思い出の中にある「古本屋でのテキスト購入」に纏わる文章を紹介したいと思う。
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○今回の一冊:高見順『わが胸の底のここには』(講談社文芸文庫)

大正八年四月、東京府立第一中学校に私は入学した。入学できたと言うのが至当かもしれぬ。私は十三歳であった。
 
 私は神田の古本屋街の店を次々にのぞいて行った。
「簡野道明、新編漢文読本の巻一、ありませんか」
 私と同じような中学生の客の殺到にそなえて、多くの古本屋はその店の前に臨時の台を出し、それにあらゆる種類の古本の教科書を堆高く積んで、番頭や小僧たちが立ち並び、
「はい、いらっしゃい。簡野さんの漢文? へい」
 と年に一度の活況に、浮きうきとうかれたような応待振りであった。
 私はこのように教科書に古本のあることを知らず、はじめは普通に、三省堂で新しい教科書を購入しようと神田へ行ったのだが、行って見て、そういう古本屋の存在を知り、新本を買い揃えられる金は母親から貰って持っていたけれど、少しでも安い古本を買って母親の負担を軽くしようと思い立ったのだった。まことにいじらしい心根というべきだが、それは古本屋の存在を知らされたためというより実際は、古本屋の前に群を成して詰めかけている中学生の存在が私にそういう勇気を与えたのである。そういう群が私を刺戟し私を支えるということがなかったら、私はそういう「親孝行」を行うことはできなかったに違いない。そういう群のなかには、府立の生徒は、殆んどといっていい位見かけなかった。府立はその頃、五中までしかなかった。
「はい、簡野漢文――」
 私の前に、かなりいたんだ黒い表紙の和綴の本が差し出されたとき、私の隣りで、何かの教科書を手にした、どこかの私立の徽章をつけた、三年か四年と覚しい年頃の生徒が、
「もっと新しい版の無いかい。修正と上についた奴……」
 と言ったのが、私の耳に入った。こういう古本買いに慣れた、即ち私には無いところの落ちつきを彼は見せていた。
 私は彼のその言葉に、ハッとして、学校から渡された教科書一覧表と、古本屋の小僧さんから渡された古本とを照らし合わせると、前者には「新編漢文読本」の上に「校訂」と横書の小さな活字が置いてあるのに、古本の方は「訂正」と成っている。
 私は唾を呑んで言った。
「訂正でなく、校訂を下さい」
 隣りの見知らぬ生徒の、彼自身は意図しない私への忠告が無かったら、私は同じ「新編漢文読本」でも中身は違う本を危く買うところだった。
「校訂は只今のところ無いんですが」
 古本の山を探してくれたのち、小僧さんがそう返事した。
「ではK-館の国文教科書、吉田弥平先生の、――巻一」
「はい」
 草色の表紙に、修正十版とある、これまた和綴の本が渡された。一覧表を見たが、何版ともそれには明記していなかった。そこで古本の奥附を見ると、初版は明治三十九年で、「大正四年一月五日修正十版発行」とあり、その年は大正八年であったから、数年前の古本である。修正十二版あたりが出ているのではないか。
「もっと新しい版のありますか」
「それは、――それが一番新しい版です」
 小僧のうしろに立った番頭が、冷やかにそして断乎として言った。
「じゃ、これ、下さい」
 怯えたように言って、
「それから、三浦周行先生の日本史の上巻」
――これはそこに無かった。
こうして私は古本を買い集めて行ったのだが、古本と言っても全く新本とかわりない新しさのもあって、そういうものの奥附には、検印のところに「御選定用見本」という紫色の判が捺してあった。「禁売買」という判の捺してあるのもあったが、選定用に出版屋から寄贈されたこういう教科書を、そんな判にかまわずに教師なり学校なりが大量に古本屋にさげて、そうして古本買いの私や私たちに、ほんとうの古本でないこういう新本そっくり新本そっくりの古本を買い得る喜びを与えていたのである。
私は古本を買ったことによって何か大変いいことをしたような喜びを味わったものであったが、いざ授業となると、前後左右、いずれも真新しい、丁度仕立おろしの着物のようなぱりッとした本を開いているなかで、私のだけが丁度よれよれの着物のような汚ならしい、持つとぐにゃりとなる本なのに、――さあ、何んともいえない屈辱の想いに襲われた。ちょっとの金の違いで、やっぱり軽率だったと後悔され、自分のしみったれた貧乏人根性がいまいましかった。
「兄貴のお古なんだよ。いやになっちゃう。……」
 そういういつわりの弁解を逸早く狡猾にも用意したが、心は穏かでなかった。裏表紙に、どこの誰とも分らない前の持主の名前が買いてあるのを、墨で丹念に黒々と消したけれど、その黒い跡はまるで犯罪の痕跡のように私をおびやかしてやまなかった。
 まことに、羞恥というより虚栄心であった。ひとたび、古本を買おうという勇気を持ち、買ったことによって、吝嗇の喜びでない一種美しい喜びを持った以上、何故その勇気と喜びを持った以上、何故その勇気と喜びとを貫き通そうとしなかったのか。貫き通すことができなかったのか。――この弱さ、この種の怯懦は、思えば、私のいままでの生涯に常に色々な場合と色々な現われに於て、つきまとっていた。
」(P80~84)

今までに読んできた「古本話」の中で、ここまで悲哀に満ちた文章を見たことがない。
大半の「古本話」は、「こういう本を手に入れた!」や「行きつけの古本屋で!」という明るい内容のものが多い。古本屋で手に取った教科書から、「貧しさ」や「虚栄心」に苦しむ人間の姿が抽出される「古本話」は、大変特異であると言っていい。
私自身は、引用文中の学生のように、古本の教科書を使っていることを隠したりはしない。ただ共感はできる。周りにも、「古本は購入しない、新品がいい」と明言している人間はいるので、そこから冷たい視線が注がれることがあるかもしれない、と思う。
ただ、あまり気にしなくていいのではないか。大事なことは、新品であれ古本であれ、きちんと読むことである。

学生のみなさん、手に入れた教科書は、きちんと読んでいきましょう!

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