あふれる水の流れ|文=北阪昌人
「幼い頃過ごした場所を、ひとりで訪ねてみたいんだけど」
電話越しに僕が言うと、
「そう、いいんじゃない。行ってきなさいよ」と妻は明るく言った。
あっさり、同意してくれたが、心の内では、おそらく心配してくれているんだろうなと思った。
最近の僕の不安定な言動に、敏感な妻が気づかないはずはなかった。四十にして惑わずとはいつの時代の話だろう。僕は40代半ばにして、人生最大に惑っていた。
岡山で仕事を終えた僕は、鳥取に向かった。
圧倒的な緑の匂いに包まれる。鳥取県智頭町。岡山県との県境に近いこの町は、手つかずの深い森を有している。芦津渓は、多くの落葉樹の中に、スギやヒノキなどの天然の常緑樹を受け入れる珍しい森。細い山道を進む。無数の鳥の声が響き、新緑が陽の光で輝く。
小学2年生から6年生までを、この町で過ごした。母は病弱で、幼い弟や妹の世話で手一杯。僕だけ、母の弟、つまりは叔父さんに預けられたのだった。
確か、この谷の奥に、滝があるはずだ。記憶を手繰り寄せようとするが、かすかな糸口も見えない。滝を見たい。あの滝の音は、寂しさを忘れさせてくれた。
僕の惑いの原因は、高校時代の友人のメジャーデビューだった。彼、高梨とは、バンドを組んでいた。バリバリのハードロック。僕たちは、大学に進んでも活動を続け、そこそこライブ会場を埋められるまでにはなったけれど、僕はプロになるのは無理だろうと思っていた。高梨は諦めなかった。バンドを離れ就職を選んだ僕とは違い、ひとりで曲を書き、ギターの練習を続けた。
そんな高梨が、ついこの間、デビューしたのだ。「遅れてきた新人」としてマスコミに取り上げられ、僕にも取材依頼が来た。
動揺した。僕が選ばなかった別の人生がそこにあった。かすかな後悔も押し寄せる。高梨から連絡があった。彼は言った。
「俺はおまえと一緒にやりたかったんだ」
音が聴こえた。滝の音だ。ゴオオオオ、ゴオオオオ……。
木々の間に、姿を現した三滝。落差21メートル。豊かな水量が一気に落ちる。
サラリーマンをやっている自分が好きだ。夢を諦めて仕方なく選んだ道ではない。今の仕事に誇りを持っている。なのに、心がざわつくのはなぜだろう。ふと、叔父さんが、この滝を見ながら発した言葉を思い出した。
「いまは、ひと筋、あるいはふた筋だがなあ、水の量が減ると、3つの筋になってしまうんだ。だから、三滝。水の量が少なくなると、あれだなあ、迷うんだなあ、水も、どっちにいったらいいか」
そうか、と思う。僕はいま、水の量が減っているんだ。だから、惑う。心に水を貯めよう。そうすれば、目の前の滝のように……。ゴオオオオ。水の流れをひとつにまとめられる。
幼い頃聴いたのと同じ滝の音に包まれながら、僕は、あふれる水の流れを見ていた。
※この話はフィクションです。次回は2022年8月頃に掲載の予定です
出典:ひととき2022年5月号
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