【井波彫刻】木槌の音が響く町、井波彫刻のみなもと(富山県)
綽如上人が開いた瑞泉寺
井波には木彫刻の長い歴史が流れ、現在も100人をこえる数の人が制作に携わっているという。まさに日本を代表する木彫刻の聖地である。そのみなもとが八日町通りに導かれる古寺であると聞いてきた。真宗大谷派井波別院瑞泉寺だ。
山門が見えてきた。瑞泉寺は、砺波市と南砺市にまたがる高清水山系の北端である八乙女山を背にして立っている。
輪番(別院の最高責任者)の常本哲生さんに訪問のごあいさつをする。背筋の伸びた立派な体格であり、きわめて物腰の柔らかな高僧の常本さんに、瑞泉寺の開創について教わる。
「室町時代の前半、浄土真宗の宗祖親鸞聖人から数えて五代目にあたる綽如上人が、京都から地方教化へと旅立ちます。越中のここ井波を選んだのは、この土地が太子信仰に篤かったからとされています。宗祖が聖徳太子を深く敬っていたことから、この地で太子信仰とともに歩んでいく浄土真宗を開いていきたいと望まれた」
現在の瑞泉寺の立つ地の近くに草庵を結んだ綽如上人だったが、京都でも賢者として知られており、あるとき朝廷の依頼で出向き、明の時代の中国から送られてきた難解な文書の読み解きを委ねられる。
「伝承の逸話です。文書の内容は、富士山を分けてくれ、というものだったとか。そんなことできるわけないやろ。さあ、困った。そこで綽如上人、ある返書を提案したという。富士山を包む風呂敷を送ってくれたら、包んで送ります」
頓智問答みたいだが、ともかくそのとき取った綽如上人のあざやかな対応が高く評価され、当時の後小松天皇より認められた寺院すなわち勅願所として建てることを許されたのが、この井波の地だったといわれる。瑞泉寺、開創だ。では、ここが井波彫刻発祥の寺というのは……。
「下って江戸中期、宝暦の世のことです」
再建で技が芽生える
井波には、井波風という風が吹く。
春先に背後の八乙女山から吹き下ろしてくる局地的な強風。2日か3日快晴がつづいて天気が下り坂になりかけるころに多いという。一種のフェーン現象*らしいが、八乙女山にいくつも風穴があり、そこから吹くと信じられていて、鎮めるための堂が建てられた。その名も不吹堂。
風は火をあおる。過去にもそれが吹いたときに火が出て大火になったことがあり、井波の人びとは火を恐れてきた。
井波風の日ではなかったが、瑞泉寺も開創から現在まで3度の火災に遭っている。
1度目は越中一向一揆*の中心寺院という理由で戦国時代の武将、佐々成政の焼き討ちに遭った。長い歳月をかけて復興するが、2度目は江戸中期、3度目は明治時代、ともに失火で被害は甚大だった。
井波彫刻の発祥となったのが、2度目の江戸中期、宝暦の世の火災だった。猛火によって壊滅状態となる。再建をめざし、京都から本願寺御用彫刻師の前川三四郎が派遣されてきた。もともと井波には寺社建築の技術レベルの高い大工がいたが、京都の彫刻師という人の登場はおおいに刺激的だったはずである。番匠屋九代七左衛門ら4人の地元大工が前川三四郎の仕事に参加し、活動をともにする。それまで大工仕事の一部だった彫刻が独立した技の分野としてあることは新鮮だっただろうし、その表現力の大きさに度肝を抜かれたことだろう。そして、たっぷり吸収する。こうして井波彫刻という種子はこの地の土に植えられた。
習得した技法を咀嚼し、磨き上げ、高めていき、次第に井波らしい彫刻が芽を吹き始める。大火のほぼ30年後の制作とされる瑞泉寺勅使門「菊の門扉」とその門の両脇の柱の「獅子の子落とし」は番匠屋九代七左衛門の代表作となり、わが国の彫刻史に残る傑作とされている。
文=植松二郎 写真=荒井孝治
ーーこのあと、本誌では瑞泉寺山門の欄間彫刻についての一つの伝承をご紹介します。地形的に風が強く、歴史的にも大火を経験してきた井波の人々の切なる願い、それを体現したかのような龍の彫刻。この土地で井波彫刻が生まれ、受け継がれていくのにふさわしい、強い思いが伝わります。現在、4年に一度は国際イベントが開かれ、海外からも認められる井波彫刻。次世代の彫刻師たちによる活躍、その美しい木彫り作品もぜひご覧ください。
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出典:ひととき2023年6月号