源氏物語から抜け出してきたような高貴な花、藤の二面性|花の道しるべ from 京都
「そろそろ色づいてきたね」。
家の近くの公園。子供たちと、藤の花が開くのを今か今かと待ちかねる。ジャングルジムに上るとちょうど正面に、藤棚がある。母校の中庭にも藤棚があった。藤は案外、身近な花だ。
一方、花材としての藤は、貴重で高価だ。小花が長く垂れ下がる姿は趣があり、品格がある。その優美な風情は格別で、源氏物語の世界から抜け出してきたかのような王朝の雅を感じさせる。桜や青楓と取り合わせるのもよい。
藤は、身近な花でもあるが、品格を感じさせる高貴な花でもある。美しさに変わりはないが、見方が変わると感じ方もずいぶん異なる。
藤の季節になると、宇治の平等院を訪れる。平等院の房の長い藤はそれ自体も立派で美しいが、藤棚越しに平等院鳳凰堂が見られるのが何よりの魅力だ。一本の藤の木が持つ美しさも素晴らしいが、古都に身を置き、山並みや街並み、そこで暮らしてきた人々の歴史を肌で感じながら、古建築と共に味わうことで、藤の花の味わいは何倍にもなる。京都の桜や紅葉は美しいと言われるのも同じ理屈だろう。
いけばなでは、花を器に合わせる。古建築にあたるのが、この器だ。もちろん現代作家の作品を使うこともあるが、祖父や曽祖父が収集した器を使うことが多い。朽ち木の器に合わせれば詫びた風情、朱塗りの漆器に合わせれば花見の風情などと、どの器に合わせるかによって花の魅力が、がらっと変わるのも面白い。
花材としての藤の魅力は、うねるようにねじれた太い蔓の持つ逞しさと、長く垂れた花房の幽雅な趣という二面性だ。太くて強靭な蔓は、藤が持つ生命力の象徴。一方、蔓の先には、細く流麗な枝が伸び、垂れ下がるように可憐な花が連なって咲く。
藤の花は繊細だ。江戸時代のいけばなの独学書『生花早満奈飛』に「藤は原来水を上かぬる物なり」と書かれている。切り花の新鮮さを長く保つためには、水の吸い上げをよくする処理が必要だが、藤はそれが難しい。そこで、藤の切り花をいけるときには、花器に張った水の中に少量の日本酒を加える。この手法には、酒に含まれる糖分などの栄養を花に与えるという意味と、アルコールで殺菌するという意味がある。市販されている切り花用の延命剤もこれと原理は同じで、栄養を与え、細菌の繁殖を抑える効果がある。
萎れた切り花を見ると、茎の切り口にぬめりが出ていたり、浸けていた水が悪臭を放っていたりするが、これは、切り口に細菌が繁殖している証拠。細菌は水の通り道である道管を塞ぎ、水の吸い上げを妨げる。そこで、アルコールを加えて、その細菌の繁殖を防ぐわけだ。
藤は生来、別の木に蔓を巻きつけて成長する。太くて強い蔓は、樹木の幹にがっちりと食いこんで痛めつけ、ときには宿主の木を枯らしてしまうこともある。特に林業を営む方にとってみれば、大事な木を枯死させる藤は、邪魔者なのだ。山道をドライブしていて、藤の花を見つけるとドライバーとしては嬉しいが、それは手入れが行き届いていない山ということになる。ここにも藤の持つ二面性が垣間見える。
同じものでも、どちらから光を当てるかによって、白にも黒にもなりえる。例えば、薬草と毒草は表裏一体だ。使い方次第で、薬にも毒にもなる。自分の考えに固執し過ぎず、柔軟なものの見方を心がけよう。藤の花は、私たちにそう語りかけてくれる。
文・写真=笹岡隆甫
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