雪解けの音|文=北阪昌人
「ゆかりさん、もう一軒、いいかな?」
先輩の新見令子さんは、そう言った。
「はい」と私は答える。
この春、私は大阪の支社に異動することになった。新見さんは、個人的に送別会を開いてくれた。一軒目は、懐石料理。二軒目に新見さんが連れていってくれたお店は、路地裏にあるビルの地下。抑えられた照明の素敵な雰囲気のバーだった。カウンターに並んで腰かける。
今回の人事は、まさに青天の霹靂。課長に昇格しての大阪転勤なので、同僚たちは栄転だとお祝いしてくれたけれど、私自身は、不安しかなかった。入社して十二年目。「どんなふうに会社人生をおくるのか?」。そんな質問をあらたに突き付けられたような気持ちになる。
「大阪支社では、新しい冷凍食品の開発やマーケティング、販路の開拓まで、いろいろやることが増えると思うけど、きっと、いい経験ができると思う」
新見さんは、静かに低い声で言った。
そう、食品会社に就職したのは、新しい商品を作りたいと思ったからだ。やっと希望がかなう。もっと前のめりになっていいはずなのに、臆病な私が顔をのぞかせる。
そのとき、音が、聴こえた。ピチョン、カラン、コロン。振り向くと、バーの奥がステージになっていて、そこで演奏が始まった。
「ハンドパンっていう楽器。あの音を聴くとね、ふわっと心が軽くなるの」
新見さんが微笑みながら、言った。
大きなお鍋のような、UFOのような鉄の楽器。女性奏者が手で触れる。
「実は、ここだけの話、私もハンドパン、始めたの。音がちゃんと出るまで大変だったけど、二〇〇一年にスイスで生まれたと言われている、まだまだ新しい楽器だから、けっこう自己流で楽しめて、面白いの」
新見さんは嬉しそうに話した。女性奏者の長い指がまるで魔法の扉を開くように素早く動く。
この音……どこかで聴いたことが……。
そうだ、あれは小学四年生の時。私は岐阜県美濃市に引っ越した。初めて登校する日は、あまりの緊張と不安でお腹がキリキリ痛んだ。
転校二日目にいきなり遠足だった。誰も知らないクラスメート。気が重い。リュックを背負いながら行きたくないと思った。訪れたのは江戸時代中期に建てられ、明治初期に増築されたと言われている町家、旧今井家住宅。その奥に水琴窟があった。ピチョン、カラン、コロン。清水がしたたる涼やかな音を聴いたら、雪が解けていくように、不思議と不安が消えていった。
今、私は、あのときと同じ音に包まれている。
ピチョン、カラン、コロン。
「ゆかりさん、あなたなら、きっと大丈夫よ」
新見さんが、優しく言ってくれた。
その声がハンドパンの音と一緒に私の心の奥底にしみこみ、いちばん柔らかい場所に届いた。
「はい、がんばります」
ハンドパンの演奏は、心地よく、私の心を流れ続けた。
※この物語はフィクションです。次回は2023年5月号に掲載の予定です
文・絵=北阪昌人
出典:ひととき2023年3月号
▼連載バックナンバーはこちら