古代ギリシア哲学の泰斗・田中美知太郎と疏水べりの「哲学の道」|偉人たちの見た京都
「哲学の道」とは、南禅寺や永観堂の北にある若王子神社付近の若王子橋から銀閣寺道の浄土寺橋まで、琵琶湖疏水分線に沿って続く小道のことを指します。
全長は約2㎞。沿道には見事な桜並木が植えられ、桜や紅葉の季節には多くの観光客がこの道に集まります。最近は海外からの観光客もたいへん多く、さまざまな言語が飛び交う京都屈指の景勝地です。1987年には「日本の道百選」にも選ばれました。
いわゆる「哲学の道」は、どこから出た名前なのだろうか。一説によると、西田幾多郎先生*がここを好んで散歩されたからだということである。しかし、先生の自宅は田中飛鳥井町*の方だったから、ここまで散歩に来るのは少し遠すぎるようにも思われる。
私は学生時代、吉田二本松*に下宿していて、よく吉田山を越えて、当時はまだ人家もあまりないところを歩きまわったが、この疎水*べりの道についてはほとんど記憶がない。
こう語るのは田中美知太郎。プラトン、ソクラテス研究の第一人者として知られ、文化勲章受章の栄にも浴した古代ギリシア哲学者です。
田中は1902(明治35)年に新潟市に生まれました。家族で上京し、小・中学校を東京で過ごしたのち、1926年に京都帝国大学文学部哲学科選科を修了。1928年以降は東京で法政大学、東京文理大学(筑波大学の前身)の講師を務めていました。
1945年5月25日、田中を悲劇が襲います。400機以上のB29が東京に襲来した山の手大空襲に遭遇。焼夷弾によって顔と手に大火傷を負い、生死の境を2週間もさまよいますが、奇跡的に一命を取り留めます。
戦後、1947年に京都帝国大学文学部の助教授に就任し、京都に移住します。西洋哲学史講座を担当し、1950年に教授となり、1965年に定年退官するまで、後進の指導・育成に当たりました。生涯をギリシア哲学研究に捧げ、プラトン、ソクラテスなどの研究を通じ、ギリシア哲学を難解な言葉ではなく平易な文章で紹介して、哲学研究の分野で大きな業績を残しました。
いまのわたしは毎日のように銀閣寺の方まで歩いているが、当時はその付近の友人の宿を何回か訪ねただけで、こちらへ散歩に来たという記憶はあまりない。橋本関雪の家は当時の記憶にもあるが、関雪桜と言われる疎水ベリの桜の思い出はない。そして無論その頃は、この疎水べりの道を「哲学の道」などと呼ぶ習わしはなかったはずである。
田中が京都帝国大学で学んでいたのは大正時代。その頃、疏水べりの道は何と呼ばれていたのでしょうか。この付近は昔から学者や文化人が多く住んでおり、「文人の道」「思索の道」などと呼ばれていたようです。また「哲学の小径」や「哲学者道」という呼び方もあったようですが、西田幾多郞との関係ははっきりとはしません。
橋本関雪は、大正から昭和にかけて、京都画壇の中心人物として活躍した日本画家です。関雪は銀閣寺道に1万㎡の敷地を持つ邸宅・白沙村荘をかまえていました(現在は記念館として公開)。1922年に300本のソメイヨシノを寄贈。桜は「哲学の道」の北端にあたる浄土寺橋から、途中の洗心橋付近までに植樹され、そのため「関雪桜」と呼ばれています。
戦後わたしが京都へ来るようになってからも、この名前はそれほど一般的ではなかったらしい。わたしの教室で大学院の博士コースを終えた昔からの京都人が、就職先の大学で学生から、「先生は哲学の道を歩かれましたか」とたずねられ、ひどく当惑したという話をしてくれた。
つまり「哲学の道」を文字通りに取って、何か高尚めいたことをきかれたのだと思い、あるいはからかわれたのではないかと疑ったわけだ。
これはあるいはこの人だけの個人的な場合であって、哲学書生かえって哲学の道を知らず、というような笑い話になるかもしれない。
このエピソードには笑ってしまいました。確かに、深遠な意味のある質問とも受け取れて、苦笑いする京都人の姿が目に浮ぶようです。
どうも「哲学の道」という名前は新しい名称であり、それが一般化されたのはごく最近のことであると言わなければならないだろう。今日この道には、これが「哲学の道」であり、「散歩道」であることが、立看板によって公示されていて、車両の通行を禁止あるいは制限する旨の掲示も行われている。「哲学の道」は一部の人たちに知られた俗称ではなくて、今は公称となったわけである。
「哲学の道」は、いつから公称となったのでしょうか。「哲学の道」を保全する活動を行なっている「哲学の道保勝会」によると、1969年に疏水分線の保存運動を進める中で、地元の方々が相談して名称を「哲学の道」と決め、以後京都市でもこの名が使われるようになったそうです。
そしてこれがこのようになるについては、住民有志の運動によって世論といったようなものが盛りあげられ、市当局がこれを受け入れた結果であると言わなければならないだろう。私はこれらの人たちの善意と努力に敬意を表したいと思う。
それまでのこの疎水べりの道は、車の往来でこわされて歩きにくく、両岸の桜の樹も枯れるにまかされ、ごみの投下によって疎水の水も濁り汚れて行くばかりだったからだ。
市当局は岸に石垣を築き、樹木を植え、散歩のための特別の道をつくったりしている。これはあまり楽でもない市の財政のうちからなされたことなのであるから、わたしたちは大いに感謝しなければならないだろう。(略)
実は、疏水分線は道路になっていたかもしれないのです。かつては灌漑や防火用水、水車動力として使われていた疏水でしたが、次第にその役割が薄れ、京都市は1968年に疏水分線を埋め立てて道路にする計画を発表します。
これに対し地元住民の中から、「環境破壊を許さず、疏水と桜並木を残すことで、景観と住民の健康・安全を守ろう」という運動が生まれ、前述の「哲学の道保勝会」が発足したわけです。この運動がなければ、今の「哲学の道」は存在していませんでした。田中も深い敬意を表しています。
京都の冬は寒く冷たい。しかしわたしは「哲学の道」が新しくつられない以前に、かえってその寒い季節に、この道を若王子の前へと歩くことが多かったことを思い出す。ひるの太陽が明るく照っているなかを、ほとんど人影もないこの道を歩くわけだ。「哲学の道」は若王子よりの方が、樹樹の緑も多く人も車も混んでいないで、ひとり歩きするのには、しずかでよかったように思う。(略)
「哲学の道」は、銀閣寺に近いあたりのほうが歩く人が多く、賑やかな印象があります。南に下るにつれて人が少なくなり、大豊橋から若王子橋付近まで来ると、かつての静かな散歩道の雰囲気が感じられます。ベンチもあって、ゆっくりした時間が楽しめます。
わたしはいま「哲学の道」のすぐ近くに住んでいるわけだが、この名称が公示されたときには、多少の抵抗を感じないわけにはいかなかった。
むかしプラトン・インクというものが、プラトン社というところから売り出されていて、その社からはまた娯楽雑誌のようなものも発行されていたようだった。若いわたしはこの名前に拘泥し、そのインクに敵意の如きものをいだかざるを得なかった。
どうしてプラトン・インクなどという名前をつけたのか。当時アテナ・インクというものが知られていたから、それに対抗あるいは便乗するために、わずかな知識のなかからプラトンの名を選び出したわけなのかも知れない。当時の一般のギリシア知識の狭さを語るものなのかも知れない。
プラトン・インクは正式にはプラトンインキという名前で、化粧品会社「中山太陽堂」(現クラブコスメチックス)を母体にして、1919年に日本文具製造(1924年にプラトン文具に社名変更)として設立。インクだけでなく、万年筆や鉛筆なども製造していました。1954年に廃業し、現在は存在していません。アテナインキは1917年に丸善で製造販売され、高級インクとして一時代を築きました。こちらは現在でも復刻版が販売されています。
「哲学の道」という名前は、これとは違って大正時代の「教養」を思い出させる名前だということができるだろう。しかし立看板に「哲学の道」などと書かれると、なんだか大げさに感じられて、少しばかりくすぐったいような、気恥ずかしいような思いをさせられるのである。
田中は京都大学を退官後も龍谷大学で教授を務め、晩年は緑内障のため視力が極度に弱まりながら、最後までギリシア哲学研究と著作に専心しました。この間、日本西洋古典学会委員長、日本文化会議理事長などを担うほか、膨大な数の著作を残しています。また、ギリシア国政府より勲章を授与され、京都市名誉市民にも選ばれています。田中は1985年、急性心不全のため亡くなりました。83歳の生涯でした。
文・写真=藤岡比左志
出典:田中美知太郎「疎水べりの道」(日本交通公社発行『旅 1973年1月号』所収)
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