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ワンメーターの出会い、ルーツを巡る記憶の旅|Eri Liao(音楽家)

各界でご活躍されている方々に、“忘れがたい街”の思い出を綴っていただく連載あの街、この街。第44回は、台湾タイヤル族をルーツにもつ音楽家のEri Liaoさんです。タクシードライバーとの思いがけない出会いによって甦った、幼い頃のなつかしい記憶とは──。

知本ヂーベンという駅で降りた。縁があるのか、この半年間で台東という場所に3回も来ることになった。それまで台東に来たことは、人生で一度もなかった。台北駅から自強號3000という新しい特急に乗って、台東駅までおよそ4時間。知本は台東で乗り換えて二つ目の駅だ。

この電車に乗るたび、「自強」という特急の名前を伝えた時の、日本人の友達のギョッとした顔つきを思い出す。なんか強そう、と言ってきまり悪そうに笑った。この字面がまるで戦前みたいな感じに見えたのだろう。富国強兵号とでもいうような。自強という言葉は台湾の歴史においてたしかに重みのある言葉だが、私のはとこの名前も自強だし、のぞみとかひかりみたいな名前と、変わらないといえば変わらない。日本の新幹線にひらがなの大和言葉の名前がついているのもそうだけど、国を代表する特急電車には国を代表するような言葉を命名したくなるのかもしれない。 

ずっと思っていたことだけど、知本というのは異国の地名にしては妙に日本的だ。今回の私の知本への旅のパートナー、現地で集合予定になっている日本の友人が、ちもと、ちもと、と言っているので、いったい何のことだろうと思って聞いていたが、そうか、彼女は「知本」を日本語読みしているのか、としばらくして気がついた。ちもと、と言われた私の頭の中には、和菓子屋さんの、白抜きで染められた美しいのれんが浮かんでいた。 

私たちが待ち合わせしている知本部落は、台湾原住民族のひとつ、プユマ族が昔から住んでいるエリアだ。台鐵の知本駅からわりとすぐのところにあって、ひと足先に現地に着いた友人から、駅からタクシーに乗ってワンメーターちょっとで着きます、と連絡があった。 

知本駅に置かれている彫刻

駅からタクシーでワンメーター。そんなにも簡単に原住民部落に行けるなんて。友人とやりとりを続けながら、私は心の中でものすごくびっくりしていた。それじゃあまるで都会ではないか。少なくとも普通の田舎だ。

というのは私自身も台湾原住民族で、私の母方の家族はタイヤル族という民族なのだが、タイヤルの部落は大体が台湾の中~北部の山岳地帯に分布していて、ワンメーターなんかじゃどこにもたどりつけない。私がおばあちゃんの家に行こうと思ったら、一応の最寄り駅である宜蘭、もしくはその先の羅東の駅からタクシーで、これでもか!という山道を1時間半ほど猛然と走り続けてもらう必要がある。

私たちタイヤルの部落が点々とある山脈は3600~3800mクラスの山々からなる。雲海が見える。母が一緒の時は、何度かタクシーを途中で止めてもらう。道路脇で母がゲーゲー吐くのを、後ろから背中をさすりながら、祈りながら見守る。私も気を抜いたら車酔いするので、決然として寝るか、窓を少し開け、外の山々や道脇の巨大シダなどを眺め、歌をうたいながら耐える。 

聞けば、知本のプユマの人々も昔から駅からワンメーターのところに住んでいたわけではなく、やはり山の方にいたのだそうだ。日本植民地時代、それではあまりに統治しにくすぎる、という理由で、植民地政府は山の中のあちらこちらで生活する知本プユマの人たちを、日本人が管理しやすい平地に移動させ、そこを新しい村としてみんなまとめて住ませる政策をとったのだという。

知本という日本風な地名も、Katratripulr という元々のプユマ語の地名の語尾 tripulr になるべく似せて「チポン」、その漢字表記として「知本」というふうに、日本による台湾植民統治のプロセスの中で生まれた、たしかに日本の息のかかった和風の名前なのだ。

知本の駅を降りると、本当に何もない。商店というものが全くないし、家もないし、バスロータリーもない。ちょうど収穫祭の期間中だと聞いていたけど、全然人もいないし、祭のにぎわいもなく、観光客も見当たらない。

もしやタクシー乗り場も……と不安になりかかったところ、矢印が目に入った。矢印の先の木陰にはテーブルがあって、その周りにおじさん数名が座っている。将棋盤を囲んで、将棋をやっているのか、やっていないのか、おじさんたちはそれぞれの方向を見てぼんやりしている。8月下旬、お昼どきで暑い。少し離れたところにタクシーが1台止まっていて、私の姿に気がついたおじさんの一人が立ち上がった。 

「乗るの?」

そうだよ、と私は言った。 

台湾でのこういうやりとりは、私をふっと楽にしてくれる。日本語みたいな敬語や、敬語からタメ口までの絶妙で膨大なグラデーション、その多種多様な色合いと結びついた多種多様な関係性、その正解・不正解、それらのどれからも解放された世界にすぐ行ける。今はじめて会った人間同士は、家族の間や、友人同士が話すのと、同じように話せばよい。「對啊~ドゥイア~(そうだよ)」と、台湾式にまのびさせて二音発すると、すーっと、日本の私が影をひそめていくのを感じる。 

タクシー運転手のおじさんは背が高く、親切そうな雰囲気の人だった。若い時はけっこうイケメンだったのかもしれない。ここで友達と待ち合わせしてるんだ、と、その晩泊まることになっている民宿の住所を見せると、おじさんは、「うーん、ちょっと道がわからないんだよね」とのんびり答えた。

まるで、道がわからないというのはタクシー運転手としてそうまずいことでもないかのように、とてもやさしい声で答えるので、私もなんとなく、「じゃあグーグルマップあるし私ナビするよ、とりあえず部落の方だから」と言うと、おじさんは「オッケー」と車を走らせた。外はぴかぴかに晴れていて、道路が光り輝いて、おじさんは道も知らないのに私のために運転している。私は後部座席に深くもたれて、こういうのも悪くないか、と思った。

どうしてそんな話になったのか、私はおじさんに、自分がタイヤル族だと話していた。基本的に私は原住民じゃない人に向かって、自分が原住民だと話すことはない。ライブの現場とかインタビューとかそういう場面で、私がどういう音楽をやっている人で、どういう歌をうたう人で、どんな出自で、というのをある程度共有している相手とだったら、自分のルーツについて話すのもやぶさかではない。でもそうじゃない場合、私、原住民なんです、とは言わない。例外があるとしたら、相手も原住民だとほぼ確信している時だ。 

このおじさんが原住民かどうか、私は特に考えてもいなかった。台東は原住民が多いエリアだし、タクシー運転手というのは台湾である世代以上の原住民の男性がよく就く職業のひとつだが、おじさんの見た目は、台東でよく見かける原住民たちとは似ていなかった。なんでか、私はこのおじさんにするりと話していた。「我是泰雅族(私はタイヤル族です)」と。

するとおじさんは、「我也是啊(私もだよ)」と、ミラー越しに私を見た。私も、ミラーの中のおじさんの顔を、よく見た。

私たちは二人ともちょっと驚いた顔をしていた。この人はタイヤルの顔をしているかな、そう言われてみればそんなようにも見えるかな。おじさんもおそらく私に対して同じことを考えていたのだろう。

「可是你長的有一點不像tayal呢(でも、あなたはちょっとタイヤルっぽくないところがあるね)」と私に言った。

「私、お父さん日本人だから」と私は言った。ああ、お父さん日本人だから、とおじさんは私の言葉をくり返し、何か納得した顔になった。おじさんはもともと船の仕事をするためにタイヤルの山から海沿いの台東に来たけれど、船の会社がつぶれて、それから知本で今のタクシーの仕事をするようになったと私に話した。 

ワンメーターとちょっとの時間。その時間をめいっぱい使って、おじさんと私はお互いの話をし、お互いの話を聞いた。タイヤルのどのあたりの山から来たのか、家族はどこにいて、どうしているのか、お母さんは元気か、おじさんは台東の知本という場所で、私は日本という場所で、お互いに今いるところで、うまくやっているのか、山に帰らないのか。

私の叔父は、まだ生きていた頃、船の仕事をしていた。遠洋漁業の船に乗っていたことは知っているが、具体的にどんな仕事をしていたのか、私は知らない。母の家にある叔父のおみやげの大きな貝の置物を見るたび、私は今でも、海に潜って貝を採りに行く10代の叔父を想像している。それはたぶん実際の叔父の姿ではないだろう。 

叔父と一緒にいられた時間は少なかったから、実際の叔父よりも、想像上の叔父との時間の方が、今も昔もずっと長いし、これからますますそうだ。あの貝はどこで買ったのだろう。叔父を乗せた船がどこかの国の港に着いて、叔父はそのあたりを散歩して見つけた土産物屋で、これならきっと母や私がよろこぶかな、と、めずらしい大きな貝をきれいに加工した置物を手に取り、眺め、買うことにしたのかもしれない。若い叔父は、どんなふうに財布を出して、どんなふうにそこからお金を出したのだろう。

子どもの頃の私は、叔父が、まるで絵本に出てくる泳ぎが上手な男の子みたいに、海の底まで一人で魚のようにもぐって、髪を水流になびかせながら、叔父の顔と同じくらい大きくてつやつや光るピンク色の貝を採っていたのだと、そういう船に乗っていたのだと、信じていた。小さな子どもの私の想像の海の中の、息を吸うことや吐くことからも自由で、どこまでも潜っては楽々と浮かび、また潜っていく叔父の姿を、私は今も時々思い出している。 

タクシーは私を乗せて、グーグルマップにあるルートとちょっと違う道を入って行った。私はそれでよかった。おじさんは道がわからないし、私はおじさんよりもっと道がわからない。これ以上この車を進ませていっても、ただ二人でもうしばらく迷っているだけだろう、と、そう感じ始めた頃、白いのぼりが立った一軒家が先の方に見えた。あそこじゃないかな、とおじさんが言って、車をそちらへ走らせていった。そこが目的地の民宿ではないことはわかっていた。たぶんおじさんも。 

ここで大丈夫、と言って車を停めてもらった。目的地ではないけど、そう遠くもない。おじさんはタイヤル語で、私に「ありがとう」と言った。私も「ありがとう」とタイヤル語でおじさんに返し、タクシーを降りて、手を振った。モホワイ・ス、おじさん。知本のタイヤルのおじさん、スガガイ・タラ。*

*モホワイ・ス:ありがとう の意
*スガガイ・タラ:さようなら の意

プユマ族による収穫祭の様子

文・写真=Eri Liao

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Eri Liao(エリ・リャオ)
台湾・台北市出身。東京大学大学院在学中、ジャズに関心を持ちニューヨークへ。文芸創作とジャズを学ぶ。祖母の死をきっかけに本格的に音楽創作に取り組み、現地ミュージシャンとセッションを重ねる中、Billy Harper (ts) ボーカルプロジェクトメンバーに抜擢され、シンガーとして活動開始。ジャズ、台湾原住民音楽など、古今東西、言語やジャンルを超えて揺さぶる“うた”の世界を歌い続けている。

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