「激動の30代を前にした夢のような雌伏の時でした」(彫刻家・籔内佐斗司)|わたしの20代
勉強も運動も苦手でしたが、絵を描いたりものを作ったりすることだけは、子供の頃から大好きでした。大学は東京藝術大学を志しましたが、現役では不合格。なにしろ当時の油画専攻の倍率は60倍以上。非常に狭き門でした。
高校卒業後は地元大阪から上京し、美術予備校に通って再び藝大を受けましたが、またもや不合格。翌年は、あろうことか予備校へも通わず、アルバイトに精を出す日々でした。
2浪目の受験で、15〜16倍という倍率にひかれて彫刻専攻を受験したら、あっさり合格。倍率が低いという理由だけで彫刻を選びましたが、今の私があるのはこの選択のおかげです。実際に入学して立体造形を始めてみたら、楽しくて楽しくて仕方がなかった。彫刻は奥行きがあるものをどんどん作っていけるでしょう。平面に絵を描くより、自分の性に合っている気がしました。
大学2年生の夏休みに、バイトで貯めた50万円ほどで、1カ月かけてヨーロッパ貧乏旅行に出かけました。たしか1ドルが290円くらいの頃です。学生用の鉄道周遊券で、なんにも決めない出たとこ勝負のひとり旅。片言の英語しか話せませんでしたが、それなりに意思疎通できたのが、今思えば不思議です。
仲の悪いエジプトとイスラエルの若者、ベトナム帰還兵のアメリカ人……旅先で出会った各国の人たちと、仕事のこと、家族のこと、いろんな話をしました。「みんな一生懸命に生きてんねんな」としみじみ思うと同時に、これまでの自分の風まかせな生き方を改めて、真剣に彫刻家として生きようと決意しました。
帰国してからはそれまで以上に彫刻に打ち込みました。生活費のためにバイトもしていたけれど、バイト先ではいつも彫刻がしたくて。四六時中、彫刻のことばかり考えていましたね。
大学院を修了したものの、食べてゆくあてがなかったので、仕方なくもう一度、大学院の文化財保存の研究室(現在の文化財保存学専攻)にもぐり込みました。当時の主任教授は、仏像修復の第一人者である西村公朝先生*です。1年ほど学生をした後、運よく助手に採用されて研究室で働くことになりました。
助手として初めて任された仕事は、奈良にある新薬師寺の地蔵菩薩立像の解体修復でした。紹介者の大先輩は「単純な構造の仏像だろうから、練習を兼ねてやってみたら」なんて言っていましたが、実際に解体してみたら、お地蔵様の中に等身大の裸の地蔵尊像が隠されているという、前代未聞の二重構造の仏像だったのです。
私は運命の出会いともいえるこの仏像の、複雑極まりない寄木造の技術に心底驚嘆し、修復の面白さ、仏像彫刻の奥深さを学びました。檜材の寄木造で彫刻し、漆を塗り顔料で彩色するという私独自の制作技法は、当時の仏像修復の研究や経験を元に確立したものです。
私の20代をひと言でいえば、激動の30代を前にした、夢のような雌伏の時。偶然のような出来事も含めて、20代の経験や出会いが、息をつく間もなく創作に明け暮れた30代以降の私を支えてくれたことは間違いないといえるでしょう。
談話構成=渡海碧音
出典:ひととき2023年7月号
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