浅草のすき焼き文化を牽引する名店「ちんや」へ|浅草鍋めぐり
食いしん坊の父は、外食で覚えた味を家で蘊蓄を傾けながら家族に食べさせるのが好きだった。鍋もよくやり、すき焼きともなると、肉やねぎはあの店で買えと指令を発し、大晦日も正月もすき焼きを囲んだ。食を通じての団欒にはひとつ鍋を囲む鍋ものがいいが、とくにすき焼きはおすすめ。肉を入れるや、座は静まり、誰もが鍋を見つめ、このとき心はひとつになる。肉、脂、ねぎの風味が醤油と砂糖にくるまれて放つ香りに、人は誰も抗えない。わたしがすき焼きこそ日本の最高のごちそうだと思い、“すきや連”を主宰するゆえんである。
すき焼きは家すきもいいが、外食の外すきにはまた違った楽しみがある。目の前で仲居さんが手際よく鍋に仕立てていくドラマがたまらないのだ。とりわけ浅草は店ごとに割下や煮方が違うからうれしい。もっともねぎについては千住周辺のねぎ商の「千住ねぎ」に決まっている。
浅草寺の東側、花川戸の「ちんや」6代目・住吉史彦さんは、浅草のすき焼き文化の牽引役。江戸時代は狆を扱う犬商だったのが屋号由来で、雷門で1880(明治13)年に料理屋へ転じ、その後すき焼き専門に。2022(令和4)年に歌舞伎でおなじみの花川戸へ移り、住吉さん自身は味のご意見番の立場になった。まもなく2年目の春で、店内はすき焼きの残り香が漂う。すき焼き屋はこうでなくては面白くない。
日本では滋養を口実に食された牛肉だが、異国の肉食がおおっぴらになると、1868(明治元)年、横浜で牛鍋屋が開業。牛鍋はすぐに浅草周辺へ伝わり、1872(明治5)年の天皇の肉食宣言もあって、文明開化を象徴する食になる。
牛鍋は当初、材料一式が入った浅い小鍋が炭火の七輪に置かれ、客は煮えばなを食べるざっかけない*ものだった。だが関東大震災や東海道新幹線開通で東西交流が盛んになるにつれ、名称はいつしか関西の「すき焼き」に代わり、煮方も鍋の中で調理する関西式の影響を受けるようになる。
この点でもちんやは先駆け。ねぎの役割に着目し、ねぎを焼いて香りを引き出してから牛肉、割下を入れるようにした。「この作り方に甘口だけどきりっとした東京下町好みのうちの割下がよく合う。この味で思い出を重ねてきたご家族連れがたくさんいらっしゃいます」と住吉さん。コンロの熱で牛肉、ざく(野菜など)、割下は三位一体となって甘辛美味をなし、ねぎの香味が加わるのだからうまいに決まっている。その熱々を溶き卵で食べ頃に調えてから口へ運ぶ仕掛けだ。
肉についても「適サシ肉」という独自の目利き法を確立した。適度にサシの入った肉の意で月齢30カ月まで肥育した雌の黒毛和種だけ。脂肪量が多すぎず、赤身との混ざり加減が細かな小サシのものを、1カ月熟成させる。この肉のすき焼きは和牛香という和牛ならではの匂いが生じ、肉は甘くやわらかい。一度知れば忘れられない味なのだ。
旅人・文=向笠千恵子 写真=阿部吉泰
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出典:ひととき2024年2月号