北の大地にあったものは、秋の空と野球場、そして誇りだ。(北海道北広島市 エスコンフィールド)|旅と野球(3)
「もう野球のシーズンは終わりました」
博物館の係員は、すまなさそうに言いながら、入場券を手渡してくれた。
「そうですよねえ」
窓の外には、赤く染まった木々が並んでいる。
ここは北海道の倶知安町。この地に住む工芸作家の取材のために、札幌からレンタカーを2時間ほど飛ばしてやってきたのである。
久しぶりの北海道は、秋の装いを深めている真っ最中で、空も海も引き寄せられるような透明さで広がっていた。僕は取材の時間より早めに着くようレンタカーを出発させた我が判断の的確さを、心の中で称賛した。
倶知安の街をぐるりと回ってから、街中にある町営のソフトボール球場を訪れた。日曜日の午前、しかも草野球にはもってこいの晴天である。ライフワークの野球観戦を楽しもうと思ったのである。
だが、球場には誰もいなかった。広々としたグラウンドの向こうに端正なシルエットの羊蹄山がそびえる。北海道に来たことを改めて実感させる美しい光景をしばし堪能していたが、際限なく感慨を催しているわけにもいかない。と言って他にやることも見つからなかったので、隣にある倶知安の風土を紹介する博物館を見学することにしたのである。
外での作業を切り上げて応対をしてくれた係員は、まだ10月なんですけどねえと、もう一回、すまなさそうな表情になった。
* * *
「ああ、確かにそうですね。ここではもう野球はあんまりやらないかもしれない」
昼過ぎに工房を訪問した工芸作家は、本州では日本シリーズも始まっていないのに、という僕の憎まれ口を聞いて、そう言って笑った。
「山ぎわにも町営の野球場があるんですけれど、そっちは行かれました?」
「行きました。地元の小学生たちがトレーニングしていたんですけど、この格好だと声をかけづらくて」
「ですよねえ」
スーツ姿の僕をみて、20代の工芸作家はもう一回笑った。新進作家としてその作品が国内外で注目され始めている彼は、生まれも育ちも倶知安だった。近くに世界的なスキー場があるゆえに、倶知安の人たちは子どもの頃からたしなみのようにウィンタースポーツに親しんでいるんです、と教えてくれた。
「でもね、みんな野球やソフトボールのことだって、好きですよ」
そう語る彼は、僕が札幌でもう数日間過ごすと告げると、だったらエスコンフィールドに行ってみたらいい、と勧めてくれた。
「話題になっていますから。すごく楽しいって」
* * *
倶知安を訪れた翌日は、取材を入れていなかった。安ホテルの一室にこもって迫り来る締め切りと格闘していたが、せっかく札幌まで来て何も見ずに一日過ごすのは耐え難い。どうにか時間をこしらえて、午後遅くに散歩することにした。
行きたいところは決まっていた。市内の南にある住宅街、平岸。
ここ数年、仕事の時もそうでない時もその曲を聞いているミュージシャンが、生まれ育った街として繰り返し取り上げているところである。
地下鉄の駅を降りて、階段を登って外に出てすぐに、歌詞で語られている通りの世界が広がっていた。スーパーに居酒屋、さまざまな商店。その奥に連なる住宅と団地。大通り沿いのレコード屋に公園、小さな神社。高架の下にはグラフィックアートの萌芽ともいうべき落書き。
どこにでもあるような、都市の中にある人工物で構成された街だった。あらゆるものが雑多に積み重なり、あらゆる人たちが思い思いに行き交う。僕が生まれ育った街と同じ匂いがする。普段あまり聴かないヒップホップにも関わらず、そのミュージシャンたちの曲を最初に聴いた時から、刺激と同時にどこか懐かしい感じを受け続けているのは、彼らがこの街をルーツにしているからだろう。
答え合わせをするような心持ちのまま当てずっぽうに歩くと、豊平川のたもとにたどり着いた。
土手を上がりとうとうと流れる川にかかる橋を渡ると、大通りを走る路面電車がはるか向こうに見えた。視線を戻して河原を見渡すと「少年野球場」と名付けられたグラウンドが広がっている。簡素な作りではあるものの、内野の土はきちんとならされているし、外野の芝も短く刈り込まれている。大事に使われていることがひと目で見てとれた。とは言え平日の夕方にわざわざ公営のグラウンドを借りて野球をする人などいるはずもない。
西陽がさす中、河原に降りて、バックネットのそばに設けられたベンチに座った。
犬の散歩をする人やジョギングをしている人をぼんやりと眺めていると、知らず知らず、自らの子ども時代のことが思い起こされてきた。
僕の住んでいた名古屋の団地にも、小さなスーパーやクリーニング屋といった個人商店が並び、各住棟の前に置かれた巨大なダストボックスには、下手くそなグラフィティが描かれていた。そのうちのひとつには、白スプレーでおどろおどろしく「TOTO Fahrenheit」と書かれており、僕はかなり大きくなるまで、TOTOのことをやたらにトゲのある服を着た恐ろしい風貌のバンドだと思い込んでいた。
川のように広い100メートル道路の向こうには野球のグラウンドも設けられた、大きな公園があった。
シーズンオフの晩秋に、公園の周回コースを使ってプロ野球の12球団対抗駅伝大会が開催されたことがあった。クラスメートたちと連れ立って見に行き、ビリッケツ争いをしている中日ドラゴンズを不甲斐なく思いつつも、真面目に走っている田尾安志や当時のスピードスターだった平野謙を間近に見て、格好いいな、とさらにファンになった。
いつしか連絡を取り合わなくなったクラスメートたちが、今どうしているかは知る由もない。だが、あの時と同じようにプロ野球の結果に一喜一憂し、息をするみたいに自然にドラゴンズを応援していることは、間違いないことのような気がした。
グラウンドの先にあるジョギングコースを高校の野球部らしき集団が走っていくのを見送った先の景色が茜色に染まっている。気がつくと夕日はもう山の向こうに消えて、空には残照しかなかった。肌寒さを感じて、僕はコートの裾を合わせながら立ち上がった。
* * *
「僕もこの前の休みに妻と行ってきたんですよ」
翌日一緒に仕事をした同じ年頃のクライアントの担当者に、倶知安での話を振ったら、我が意を得たりとばかりにエスコンフィールドの素晴らしさを語ってくれた。
「野球の試合をやっていなくても楽しいんですよ」
いや、僕は野球を見たいのです、と返すと、一瞬きょとんとした顔になってから、ですよね、と笑った。
「僕だって好きですよ。ていうか、北海道の人たちは皆、野球好きですから」
社会人らしくスムーズに会話を成立させた担当者は、最後にもう一回、でも色々楽しめる施設もあるし、ほんと遊びに行くだけでもおすすめです、と付け加えた。
その言葉に押されるように、取材の後、エスコンフィールドに赴いた。そしてすぐに、彼の言葉に偽りのないことを理解した。
平日の昼間にも関わらず、老若男女が集っている。球場を彩る花壇には、可憐な野花が咲き、その先にある子ども専用のプレイフィールドでは、就学前と思しき男の子が父親の投げる球をアーロン・ジャッジばりのフルスイングで迎え撃ち、思い切り空振りをして尻餅をついている。
試合がなくても、一日遊べるアミューズメントが揃っているのである。
球場の中に入ると、北海道日本ハムファイターズ出身の伝説的なメジャーリーガー、ダルビッシュ有と大谷翔平の壁画の前で、観光客と思しきカップルが記念写真を撮っている。その横を車椅子に乗った高齢者のグループが付き添いの人たちと一緒に通り過ぎる。
彼らはそのまま外野スタンドからグラウンドを見下ろした。
「すぐ近くに見えるねえ」
その言葉どおり、スタンドの傾斜が緩く、外野のフェンスが低いのでグラウンドがすぐそばに感じる。実際に試合が行われたら、臨場感は相当なものだろう。
「午前中に来たら、練習している選手もいたんですけどねえ」
売り場の女性に、初来訪の感想を告げて、選手がプレーするところを見れたら最高だったんですけどね、と付け加えた。軽い気持ちでの発言だったが、彼女はまるで選手がグラウンドにいないのは自分の責任であるかのように、すまなさそうにそう言った。
「シーズンオフだし仕方ないです。でも、ここで試合観たらすごく盛り上がりそうですねえ」
「盛り上がりますよお」
いい球場ですもの、と語る彼女からは、ここは、私たちの球場だ、という誇りが滲み出てきていて好感が持てた。そんな彼女が手渡してくれたホットドッグもまた、ほどよいざっかけのなさで、美味しいのである。
外野スタンドに座ってホットドッグを頬張っていると、ドームの天蓋が開きはじめて、抜けるような北海道の秋の空が頭上に広がり始めていた。
「今日はまだあったかいから、気持ちいいね」
老夫婦が、貴重なものを受け取るかのように、陽光の差し込む空を見上げて笑いあった。
* * *
「ここ、見てごらんよ」
球場の外に出て、ホテルへと戻るべくバス乗り場に向かっていると、スタジアム正面の広場に立っていた男性に呼び止められた。こちらを見ながら手招きをしている。
「写真、撮っていかない?」
男性の足元にはレンガが敷き詰められている。よく見ると、一つひとつに名前が刻まれている。どうやらファンたちが自分の名前を入れたもののようである。
「そうなんだよ。で、ここにさ、大谷とダルビッシュのもあるんだよ」
指差す先には、確かに彼らの名前が刻まれたレンガが敷かれている。誘いにのって写真を一枚撮り、お礼を言うか言わないかのタイミングで、歳のころ60の男性は語り始めた。
「俺さ、この近くに住んでいるんだよ。で、ほとんど毎日、ここに散歩に来るの。で、こうやって見に来てくれた人たちに球場のこと紹介しているんだ」
「自主的に?」
「そう。俺さ、こんなにいい球場ができて、嬉しいんだよ」
おじさんは、子どものように無邪気な笑顔で、スタジアムを指差した。
「ちょっと前まではさ、読売ジャイアンツが夏に来る時しか、プロ野球見れなかったんだもんね」
ファイターズが本拠地を北海道に移転したのは2004(平成16)年。もう20年も前の話である。それ以前のことを「ちょっと前」と表現するおじさんのプロ野球観戦歴は、おそらく幼少期から始まる長いものだろう。ならば、ちょっと踏み込んだ話をしてもいいはずだ、と僕は判断した。
「僕もね、プロ野球、好きですよ」
「へえ、どこのファン?」
「ドラゴンズ。生まれも育ちも名古屋だから」
「ああ、お互い大変だったね。今シーズンは」
おじさんは、年の功を感じさせるほろ苦い笑いを見せた。
「お互いビリでしたもんね。でも僕、来年はどっちもやると思うんですよ」
本音だった。あらゆる角度から分析して、僕は来季はドラゴンズはもとよりファイターズも上位に入ると予測しているのである。
「ドラゴンズとの日本シリーズ、あると思いますよ」
我ながら熱すぎる決意表明に、さすがのおじさんも少し引いた表情になったが、ややあって笑顔を取り戻し、そうなるといいよな、と笑った。
帰りのバスがロータリーに入ってきた。
「北海道の人って、なんで野球好きが多いんですか」
別れの挨拶をしながら、最後に一番聞きたかったことを質問した。
「だってさ、ずっと待っていたんだもの。来てくれるのをさ。ずっとだよ」
* * *
バスに乗っているうちに、外はすっかり暗くなってきた。
観戦こそできなかったが、僕は随分と満足した気分になっていた。どの出会いも、劇的ではない。まとまりだってない。でも、北海道という土地に愛着を持つ人たちがいて、野球や野球場に託した思いを垣間見ることができたことは、幸運以外の何ものでもなかった。そして、遠く離れた地に、自らのルーツに通じるものや人で構成された街があり、同じように生活の中に彩りとして野球やそれにまつわる娯楽を組み込んでいる人たちがいることは、幸福以外の何ものでもなかった。
一つひとつの出会いをしみじみと振り返っているうちに、高校時代からの唯一の友人が、少し前まで北海道で暮らしていたことを思い出した。
「エスコンフィールド行ってきたんだよ」
メッセージを送ると、今は京都にいる友人から、すぐに返事がきた。
「グラウンドが近いでしょ」
「うん、ここで観戦したいと思った」
「来年はドラゴンズとの交流戦をやるんだよ。観に行くしかなくない?」
「いいねえ」
統一されたルールで行うスポーツだからこそ、その人にしかない「個性」が際立つ。そして、多色刷りのようにさまざまな観客が集まるからこそ、何にも影響を受けない野球の普遍の「良き部分」が浮き上がってくる。
北の大地の試合では、いったい何が見えるのだろう。振られっぱなしだった反動で、期待が膨らんでいることに気づいて、僕は思わず笑みをこぼした。
文・写真=服部夏生
イラスト=五嶋奈津美
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