歌人・穂村弘さんと短歌の桜めぐり
いちばん最初の桜の記憶はなんだろう。そう思って考えてみた。それは入学式でもお花見でもなかった。なんと、チャンバラだ。
私の子ども時代は、背中に風呂敷を背負ってチャンバラをする遊びが流行っていたのだ。風呂敷はマントの代わりである。月光仮面をはじめとして、当時の正義の味方は皆マントを翻していたからだ。そして、チャンバラには刀が必要。私のそれは桜の枝だった。どこからか拾ってきたのか誰かに貰ったのか、思い出せないけど、友だちの刀よりも恰好良くて羨ましがられた。
初めて桜の花を見た時、あまりの華やかさに驚いた。「これが僕の刀と同じ樹なの?」と不思議な気持ちになった。もちろん、私の愛刀に花は咲かなかったけれど。
東京都杉並区
桜は特別な存在として、昔から多くの歌に詠まれてきた。幾つかを紹介してみたい。
水流にさくら零る日よ魚の見るさくらはいかに美しからん
小島ゆかり『月光公園』
陽の下で咲き誇る桜のほかにも、夜桜、花吹雪、花筏とさまざまな姿がある。だが、この歌には、そのどれとも違う桜が描かれている。「魚の見るさくら」は無数に降り注ぐ花びらを水中から見上げることになる。地上の人間はまず体験することのないアングルだろう。作者はその「さくら」を「いかに美しからん」と、うっとり想像しているのだ。
弘前公園(青森県弘前市)
夜半さめて見れば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん
馬場あき子『雪鬼華麗』
真夜中にふと目覚めて見ると、花吹雪が怖ろしいほどだった。〈私〉が眠っていた間も、休むことなく散っていたのだろう。その正体は桜の姿をした〈時〉ではないか。〈私〉が起きていても眠っていても、一瞬も止まることなく〈時〉は流れる。ただ、普段はその姿が目に見えることはない。けれども今、〈時〉の化身として、目の前に花びらが降り続けている。
醍醐桜(岡山県真庭市)
さくらさくらいつまで待っても来ぬひとと
死んだひととはおなじさ桜!
林あまり『MARS☆ANGEL』
作者の林あまりは坂本冬美の代表曲「夜桜お七」の作詞も手がけた。掲出歌は、その原作となった一首である。〈私〉は夜桜の花吹雪を身に浴びながら、来ない誰かを待っている。「さくらさくら」「死んだひと」「おなじさ桜」とサ行の音が花びらのようにさらさらと流れてゆく。その先に「夜桜お七」の「さよならあんた」というフレーズが生まれたのだろう。
桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命をかけてわが眺めたり
岡本かの子『浴身』
現代では、お花見と云いつつ、浮かれて騒いでいる人々の多くは肝心の桜などほとんど見ていないようだ。だが、この作者は違う。桜が命懸けで咲いているから、自分も命をかけてそれを眺めたという。桜も生き物、〈私〉も生き物。植物と動物という違いを超越して、命と命が火花を散らすような、桜と〈私〉の真剣勝負だ。
武蔵野中央公園(東京都武蔵野市)
文・短歌選=穂村 弘
──この続きは、本誌でお楽しみになれます。美しい桜のグラビアはもちろん、最後に書かれた穂村さんが桜について語るエピソードは、ぜひご一読いただければと思います。短歌とともに、誌上の桜めぐりをお楽しみください。
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出典=ひととき2023年4月号