東大寺大仏殿の再建に、源頼朝が尽力したワケ──西山厚『語りだす奈良 1300年のたからもの』
治承4年(1180)12月28日、奈良に攻め入った平重衡は東大寺と興福寺を焼いた。
平家に随わないのは、あとはもう奈良の寺々だけ。平清盛は息子の重衡を奈良へ遣わしたが、焼けと命じたわけではなかった。
東大寺は、大仏殿、講堂、僧房、戒壇、食堂、廻廊、鎮守八幡宮、尊勝院、東南院、真言院など、主な建物のほとんどが焼け、大仏も焼けた。
摂政や関白を歴任した九条兼実は、日記に「悲哀、父母を喪ふよりも甚し。天を仰いで泣き、地に伏して哭く」と悲痛の思いを記している。
大仏が焼かれてから2か月余りが過ぎて、清盛が熱病で亡くなった。あまりの高熱に冷水をかけたところ、熱湯になって飛び散ったという。
「大仏を焼いたからだ」と人々はうわさした。
清盛が死ぬと、大仏復興の動きが始まった。しかし、大仏の復興、大仏殿の再建は、財政的にも技術的にも困難に思われた。その時、重源が登場した。
重源は勧進による復興を提案し、後白河法皇によって承認された。重源と多くの仲間たちが、全国各地をまわり、寄付を募った。重源は中国の人々ともつながりがあり、すぐれた技術をもつ陳和卿に、大仏復興・大仏殿再建を指導してもらう。
後白河法皇の支援のもと、大仏復興は比較的スムーズに進んだ。そして、壇ノ浦で平家が滅んだ5か月後の文治元年(1185)8月28日、完成した大仏に魂を入れる開眼法要が営まれた。魂は、高僧が筆で入れる。奈良時代に大仏に魂を入れた大きな筆は正倉院に保管されており、それを手にして大仏に魂を入れたのは、後白河法皇自身だった。
しかし、大仏殿の再建は、困難を極めた。
大仏殿を建てるには、当然ながら、大きな木がたくさん必要だ。周防国(山口県)から運んでくることになったが、人手の確保が難しく、妨害する勢力もあって、重源は断念せざるをえない状況に追い込まれた。
そんな苦境を救ったのは、源頼朝だった。
奥州藤原氏を滅ぼし、足かけ10年に及ぶ戦を終わらせた頼朝は、大仏殿再建に積極的に関わるようになる。
重源に宛てた頼朝の手紙を見ると、仏の敵である清盛、仏教を護る頼朝、その対比を明確に示しているが、それは決してパフォーマンスではなく、尋常ならざる信心深さこそ、頼朝の本質だった。
頼朝は、佐々木高綱を奉行として、御家人を材木輸送に動員することにした。
そして、大仏の周囲に安置する脇侍像と四天王像の造立を有力御家人に割り当てた。たとえば増長天像は運慶、広目天像は快慶が制作したが、増長天像は畠山重忠が、広目天像は梶原景時が、その費用を負担した。
大仏復興から10年、ついに大仏殿は完成した。
建久6年(1195)2月14日、東大寺の法要に参列するため、頼朝は、政子、大姫、頼家を連れ、鎌倉を出た。大姫を同伴したのは、幼い時にいいなずけになった木曽義高(義仲の子)が殺されたことで心を病んだ大姫を入内させたい(後鳥羽天皇に嫁がせたい)、その下工作のためだったと思われる。
3月12日、東大寺供養がおこなわれた。後鳥羽天皇、頼朝、政子、大姫、頼家らが参列し、数万の武士が周囲を警護した。
しかし、大姫の入内は叶わず、2年後、大姫は亡くなった。まだ20歳だった。その2年後、頼朝も亡くなった。
鎌倉から奈良まではおよそ1か月。往復の長い時間を、頼朝、政子、大姫、頼家は、どのように過ごしたのか。
4人は、どこで何を食べ、何を語り、どんな未来を夢みたのか。4人が見た夢は何ひとつ叶わなかったが、これが最初で最後の遠方への家族旅行、もう二度とない幸せな日々だったに違いない。
(2022年8月24日)
文=西山厚
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