なぜ、京都・賀茂神社は2つに分かれているのか?──上賀茂神社・下鴨神社の気になる関係性
文=古川順弘(文筆家)
糺の森に覆われた広大な境内
京都の賀茂神社は上賀茂神社と下鴨神社の2つから成るが、古い時代には上賀茂神社、すなわち賀茂別雷神社しか存在しなかった。言い換えれば、かつては上も下もなく、ひとつの賀茂神社しかなかった。ところが、のちにこの賀茂神社(賀茂別雷神社)から分立されるかたちで下鴨神社、すなわち賀茂御祖神社が誕生した──このような見方が、現在では通説的な地位を占めつつある。
ならば、いつ、なぜ分立されたのか。この問題を探る前に、まずは下鴨神社の祭神と鎮座地を確認しておきたい。
祭神は賀茂別雷神の母神である玉依媛命(玉依日売)と、この女神の父神である賀茂建角身命。下鴨神社の正称を賀茂御祖神社と言うのは、上賀茂神社に祀られている賀茂別雷神の祖(母と祖父)が祀られているからだ。
鎮座地は京都盆地北東部の下鴨で、北東から流れて来る高野川と北西から流れて来る賀茂川が合流する地点の北側である。合流地点から下流は鴨川だ。賀茂川を基準に見るならば、上流のほとりに上賀茂神社が、下流のほとりに下鴨神社が鎮座しているということになる。やや余談になるが、2社を併記する場合、ふつうなら上→下の順で「上賀茂神社・下鴨神社」と書きたいところだが、賀茂神社の場合は、祭神の親→子の順で「下鴨神社・上賀茂神社」「下・上賀茂社」などと書くのが通である。
広い境内は「糺の森」と呼ばれる鬱蒼とした原生林に覆われている。ムクノキ、エオノキ、ケヤキなどのニレ科の落葉広葉樹が中心で、森の下を4本の清らかな小川(泉川、瀬見の小川、御手洗川、奈良の小川)が流れている。本社本殿は森を南北に貫く表参道を北に進んだ先にある。
境内地は、高野川と賀茂川の氾濫によって形成された豊かな土壌をもつ三角形状の州の中に位置している。現在では住宅地や車道に囲まれているが、往古には糺の森がつくる森厳な神域の東西は、高野川・賀茂川それぞれの岸辺にまで広がっていたはずだ。日本有数の古社として知られる奈良の大神神社が、三輪山を背に、合流する巻向川と初瀬川に囲まれた三角状のエリア内に鎮座していることを考えると、意味深な符合である。
タダスの名は、この三角州一帯を「只州」と呼んだことに由来すると一般には言われるが、森に湧く清水を形容する「直澄」と解する説や、「正す」の意にとって神道的な教義に結びつける解釈もみられる。
高野川と賀茂川の合流地に分立された下鴨神社
社伝では崇神天皇の時代に神社の瑞垣が造営されたとし、下鴨神社の創祀はこれをさらにさかのぼることになっている。しかし、下鴨神社の史料上の初出とされているのは『続日本後紀』承和15年(848)2月21日条で、そこには「賀茂御祖大社禰宜の下鴨県主広雄らが『去る天平勝宝2年(750)に御戸代田(神田)1町が奉充されましたが、これ以降、増えておりません。これでは足りませんので、賀茂別雷神社に準じて1町を加増してください』と訴えた」ということが記されている。
これによれば、奈良時代なかばの天平勝宝2年(750)には下鴨神社の神田が存在し、財政的基盤を確立していたのだから、遅くともそれまでには下鴨神社が創祀されていたということになる。
一方、賀茂神社縁起である『山城国風土記』逸文の「賀茂社」条は、のちほど詳述するように、下鴨神社の前身とみられる神社に関しては言及がみられるのだが、「賀茂御祖神社」やこれに類する社名は出てこない。『山城国風土記』の正確な成立年は不明だが、元明天皇が諸国に『風土記』編纂を命じたのが和銅6年(713)である。そこで、『山城国風土記』の成立を大ざっぱに720年前後(奈良時代のはじめ)と仮定すると、その時点では下鴨神社はまだ存在していなかったことになる。
こうしたことを踏まえるならば、下鴨神社の成立を720~750年頃とする仮説を立てることができよう。そしてここからさらに考えを広げるならば、「奈良時代のはじめ頃までは賀茂神社といえばひとつしかなく、それは現在の上賀茂神社にあたるものだった。しかし、しばらくすると、高野川と賀茂川の合流地付近にあった摂社を独立させるようなかたちで下鴨神社が誕生した」という推測も成り立つ。
仮にこの見方が正しいとして、では、なぜ下鴨神社が分立されたのか。歴史学者の井上光貞氏は、この謎に対して、『日本古代国家の研究』(1965年)の中である仮説を提示している。わかりやすくまとめるならば、およそ次のようになる。
「7世紀末から8世紀前半にかけて、賀茂神社では賀茂祭が群衆も参加して非常に盛大に行われるようになり、ときに乱闘が生じるほどだった。このことを危険視した朝廷側は、賀茂神社を弱体化させるべく2つに分けることとし、下鴨神社を新たに創祀させたのではないか」
たしかに、賀茂祭の度を超したにぎわいに朝廷が神経をとがらせていたらしいことは、賀茂祭の会集や騎射を禁止・制限する命令が1度ならず出されていた事実からもうかがえる(『続日本紀』文武天皇2年〔698〕3月21日条、大宝2年〔702〕4月3日条など)。
井上氏は下鴨神社の分立に伴って、賀茂神社の神官を務めてきた賀茂一族も分立したとしている。そして下鴨神社の社家鴨氏(鴨県主)の古系図を考証し、分立後、下鴨神社の最初の禰宜を務めたのは、系図上の始祖大伊乃伎命之子(賀茂建角身命の12世孫だという)の8世孫鴨主国だろうと推定している。主国は、古系図の注記によれば天平年間(729~749年)に禰宜になった人物である。
結局、下鴨神社の分立は、国家が統制に乗り出さざるを得ないほどに賀茂神社の神威が強力なものとして認識されていたことの裏返しだろう。朝廷は京都盆地で賀茂氏が強大化することを恐れた、という見方も可能である。
しかし、結果から言えば、賀茂神社の勢いがこうした措置によって抑えられることはなかった。しかも平安京ができると、都の古社である下・上賀茂社は皇室から篤い崇敬を受けるようになり、王城鎮護の神社として伊勢神宮に次ぐ存在になってゆく。
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