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真鶴を背負う人──駄菓子屋・ウオキヨ〈後編〉|駄菓子屋今昔ものがたり

前編では、真鶴町が定める「美の基準」について、その成り立ちを紐解きました。後編では、過疎化が進むこの町で、新たに駄菓子屋を開業した意外な仕掛け人にその狙いを伺います。

>>> 前編から読む

2022年12月24日、真鶴に「ウオキヨ」という一風変わった名前の駄菓子屋がオープンした。

所在地は、かつて”真鶴銀座”と呼ばれた通り(西宿中通り商店街)の一角なのだが、現在の真鶴銀座はいわゆるシャッター街と化しており、営業している店舗はわずかしかない。

 ウオキヨは、10年前まで「魚㐂代」という名前の鮮魚店だった。10年間仕舞屋になっていたのを、近所に開店した「伊藤商店」というラーメン屋の店主が駄菓子屋としてリニューアルして、2022年の末、開業に漕ぎつけたのである。

ウオキヨの1階は駄菓子屋、2階は町民のための交流スペースとなっており、改装工事は芝浦工業大学の「空き家改修プロジェクト」という学生団体が主体になって行った。真鶴の町の人たちも、学生たちに協力を惜しまなかったという。

この「真鶴まちあかりプロジェクト」と命名された一連の流れを主導したのは、ラーメン店「伊藤商店」の店主であり、そして芸能人でもあるひとりの男だった。

デビット伊東さん、58歳。

筆者の世代には懐かしい、コントトリオ「B21スペシャル」のメンバーだった、あのデビット伊東さんである。

伊東さんが真鶴で駄菓子屋を開業するまでには、四半世紀におよぶ山あり谷ありの物語があった。

2000年、伊東さんは『とんねるずの生でダラダラいかせて‼』(日本テレビ系)というテレビ番組の企画で、ラーメン店「一風堂」に半年間の修行に入っている。

当時の伊東さんは、ドラマ『聖者の行進』(TBS系)で見せた迫真の演技が評判を呼び、お笑い芸人から役者への道を歩んでいる最中だった。ところが、プライベートでの故障が原因で左脚の膝から下が自由に動かせなくなってしまい、装具をつけないと普通に歩けなかった。それでは演技ができない。何より、共演者やスタッフに迷惑をかけてしまうのが、伊東さんには辛かった。役者生命が危ぶまれる状況だった。

そんな時期に一風堂での修行をオファーされたわけだが、あくまでもテレビの企画だったから、寝起きするのは近くにあるホテルだった。テレビのスタッフが宿舎としてホテルを用意してくれたのだ。

ところが、何ごとも徹底的にやらなければ気が済まないたちの伊東さんは、これでは修行にならないとホテルをキャンセル。ワンルームアパートを借りてもらい、そこから店に通うことにしたという。

ウオキヨの一階で、伊東さんに直接話を聞くことができた。

「あの時は、朝の6時、7時に店に入って、深夜の2時、3時まで仕事をしましたね。テレビのスタッフから、そんなに働かなくていいって言われたんですが、飲食の仕事なんてやったことがなかったんで、何もわからないから、わかるまで働かせてくれってお店に頼んで……」

伊東さんは一風堂のラーメンの作り方を身につけるのではなく、オリジナルのラーメンを作るという企画で修業に入ったそうだが、ラーメンの世界は想像以上に奥が深かった。

「どうせテレビの企画でしょって言われるのが嫌だったんで、この修行を本気でやり切ったらどうなるんだろうと思って、たぶん、みなさんが修行という言葉から想像される倍以上のことをやったと思います。スープから具材から、すべてゼロから作りました。なかなか納得がいかないんで、もう、ずっと作り続けていましたね」

この企画のスタートには、ちょっとしたアクシデントがあった。

一風堂の社長、河原成美さんに挨拶に行ったときのことである。伊東さんが「オリジナルを作る修行をさせて下さい」と頭を下げると、河原さんに「(ラーメンは)そんなもんじゃないぞ!」と、いきなりビンタを張られたというのである。

「河原さんはすぐ熱くなる人なんでね。こっちも『TV背負ってきてるんですよ』って殴りかかろうとしたら、周りのスタッフに止められました(笑)」

河原さんも伊東さんも、すぐ熱くなる体質なのだ。

かつてラグビーの選手であり、将来は教師になるつもりだったという伊東さんは、身長180センチ、胸板がぶ厚い。

変な質問をしたらいきなり殴られるんじゃないかと、ちょっと怖くなった。

一風堂での修行を終えて、2000年の7月19日、伊東さんは渋谷にラーメン店「でび」をオープンしている。

1か月の間厨房で寝起きをして、3か月の間、スタッフをつきっ切りで教育した。しかし「でび」は、あくまでもテレビの企画の延長としてオープンした店であり、テレビの密着取材が入っていた。どれほど一所懸命にラーメーンを作っても、「しょせんテレビの企画でしょ?」と言われても仕方のない面があった。

ところが伊東さんは、テレビの企画が終了した後、店名を「でび」から「でびっと」に改名して、どういうわけか、自力でラーメン店をオープンしてしまったのである。むろん、密着取材も入らなければ、開店資金も出ない。

「自分で従業員を雇って、自分でラーメン作ってね。この時期は本当に大変でした。なにしろ、会社経営なんて一度もやったことがなかったから、僕、銀行に行ったら普通にお金を貸してくれると思っていたんですよ。大げさじゃなく50回ぐらい銀行に通いましたけれど、『あなた、いったい何をどうしたいんですか』『先々のことを考えて、これだけの金額を借りられますか』って、最初はまったく相手にしてもらえませんでした」

いくら名の知れた芸能人だからといって、銀行はおいそれとお金を貸してくれないのだ。それでも銀行に日参して、ある時などは融資担当者に「おはようございます」と挨拶だけして帰ってきたこともあった。

「僕には実績がないから、いくらビジネス書を読んで行っても、ちょっと突つかれちゃうと化けの皮がはがれちゃうんです。50回目ぐらいの時ですかね、担当の人に『今日、また後で来るんで』と言ったら、『また来るんですか。 もういいですよ、わかったから。あなた面倒くさい人ですねぇ』って言われて、それで融資してくれることになったんです(笑)』

伊東さんの本気が銀行マンの心を動かしたとも言えるが、それにしても、なぜ伊東さんはラーメン店の経営に乗り出したのだろう。

「渋谷の『でび』のスタッフが、10人以上僕についてきてくれたからです。『でびっと』を開店したときに初めて、僕はスタッフの人生を背負ったんだと思いました。こいつらをなんとか食わしていくには何をすべきなのかって、もう、必死でしたね」

背負う。

伊東さんは、要所要所でこの「背負う」という言葉を使う。

ラーメン店「でびっと」は、当初、順調な経営を続けていた。

しかし、いわゆるラーメン評論家の間ではあまり評判がよくなかったという。芸能活動とラーメン店の経営という”二足のわらじ”を履いていることを面白く思わない人が多かったのだ。「ラーメンをなめるな」というわけだ。

そして、評論家たちとは別に、伊東さんの選択に複雑な思いを抱えている人が、もうひとりいた。いかりや長介さんである。

いかりやさんは、やはり『聖者の行進』に出演しており、共演シーンこそなかったものの、役者としての伊東さんを高く評価していた。

ある日、『でびっと』の店頭にいかりやさんがふらりと現れて、店の裏に回っていった。伊東さん以外のスタッフは、誰も気がつかなかったという。

「おう、元気か。ラーメン屋さんがんばってるな。ラーメンもいいけどな、芸能界もしっかりやれよ」

「えっ、どういう意味ですか」

「若い連中をまっすぐ行かせるために、お前みたいな奴が先を走らないとダメだろう」

いかりやさんはそれだけ言うと、ラーメンも食べずに帰ってしまったという。

二足のわらじ。

実は筆者も、「ラーメン店と役者の、二足のわらじを履いているんじゃないですか」という質問をいつしようかと、ドキドキしていたのだ。

「僕は二足のわらじじゃなくて、一足のわらじが大きくなったんだって言ってるんです。お客さんに見せる、という意味ではラーメン店も役者も同じなんです。僕はラーメン店も舞台だと思っているし、ラーメンを作りながら役者としての引き出しを増やしていると思っているんです。本当に調理ができる役者なんていませんからね」

「でびっと」は順調に店舗を拡大していった。

国内では中延(東京都品川区)、札幌、小樽、大和(神奈川県)などに出店し、海外でも上海、マカオ、ホーチミン(ベトナム)などに出店した。最盛期は国内6店舗、海外10店舗の陣容を誇った。

伊東さんは芸能活動を継続しながらラーメン店の経営もこなすという、”一足のわらじの巨大化”をみごとに両立させていったのだ。

ところが、2019年末に始まったコロナ禍が、状況を一変させてしまった。

「でびっと」の経営は急激に悪化し、いきなり廃業寸前のところまで追い込まれてしまう。

「コロナですべてがストップしてしまいました。ラーメン店も芸能活動もね」

海外店舗は、ロックダウンが行われたためにまったく営業ができなくなり、すべて撤退。6店舗が稼働していた国内も、3店舗まで縮小せざるを得なくなってしまった。

「国内の店もどうにもならないし、海外も全部止っちゃってね。ベトナム以外は僕の会社の経営じゃなかったから、スタッフはいきなり首を切られて路頭に迷っちゃったわけですよ。だから、僕が借金をして『お前らこれで食っていってくれ』って全スタッフにお金を渡したんです。僕は一銭もなくなってもいいやと思って。で、僕たち夫婦はこれからどうすればいいんだろうって、ふっと奥さんの方を振り返ったら、あまりいい状態じゃなかったんです」

妻の能子さんは、鬱状態に陥っていた。

「大きな借金を背負ったことは奥さんに言ってなかったんだけど、僕が金策に走り回っているのを薄々知っていて、不安を抱えていたんだと思います。身内のことは、どうしても後回しになってしまうんでね」

能子さんの異変に気づいた伊東さんの脳裏に浮かんだのは、なぜか真鶴という町の名前だった。

伊東さんはテレビ神奈川の『あっぱれ!KANAGAWA大行進』という情報バラエティ番組に、実に16年間の長きにわたってレギュラー出演していた。この番組を通して、特に、県西と呼ばれる神奈川県の西部に親しみを持っていたという。

「二宮、真鶴、山北、南足柄……。県西はゆったりのんびりしていて、いいんですよ。仕事で忙しく走り回っていても、深呼吸できるエリアなんです」

県西の中でも特に真鶴に愛着を持っていた伊東さんは、コロナをきっかけに、自宅のある横浜からたびたび能子さんを連れ出しては、一緒に真鶴を訪れるようになった。

「二人で真鶴行こうかって、何度も通ったんです。横浜から見たら何もない町だけれど、僕らが行く度に地域の人たちが食事会を開いてくれてね。この町の人たちはコロナなんか物のともせずに、わーって盛り上げてくれて、また会おうよって言ってくれたんです。僕ら真鶴の町の人たちに、本当に助けられたんですよ」

コロナが終息に向かうなか、真鶴の人たちのために何かしたいと考えた伊東さん夫婦が最初に始めたのは、なんと町の掃除だった。

落ち葉に埋もれていたお林展望公園の観音様(内袋観音)を、町の人とともに約半年かけて、お参りができる状態まで清掃した。

「すべては、真鶴という町に対する恩返しですよ。この町は昭和で時が止っているんです。醤油を借りたら野菜で返すみたいな物々交換が、いまだに生きている。真鶴の子どもたちは、大人に会ったらちゃんと挨拶するんですよ。都会だったら、知らない大人としゃべっちゃダメって言われるでしょう」

真鶴への思いを深めた伊東さんは、2020年に横浜から真鶴への移住を決意する。翌、2021年の3月13日には、真鶴にラーメン店「伊藤商店」をオープンして、妻の能子さんと共に自ら厨房に立っている。「伊藤」は伊東さんの本名である。

2022年の末、かつての真鶴銀座の一角に駄菓子屋のウオキヨをオープンしたことは、先述の通りである。

ウオキヨは、伊東さんや芝浦工大の学生、そして真鶴の町の人たちが一体になって進める「真鶴まちあかりプロジェクト」の一環であり、シャッター街と化してしまった真鶴銀座に再びあかりを点すための、橋頭堡だと言っていいだろう。

ウオキヨには魚屋時代の作り付けの冷蔵庫がそのまま残してあり、魚㐂代時代の看板もそのままだ。更地にして新しく建て替えるのではなく、いまあるものに命を吹き込むという手法は、どこか「美の基準」の考え方に通じるものがある。

ウオキヨで店番をしている赤坂亜津美さんと、鈴木三知江さんに話を聞くことができた。

赤坂さん、通称アヅさんは、そもそもは移住者だった。横浜で学校の講師をやっていたが、家族が真鶴に引っ越すというので、講師を諦めて移住してきたという。

「真鶴には、都会では味わえない心地よさがありますよね。時間はかかるけど、いったん懐に入ってしまえば心地いい。電車は20分に1本、バスなんて1時間に1本しか通らないから、真鶴タイムっていうのかな、ゆっくりと時間が流れてますよね。町の人はみんな時間を守らないしね(笑)」

ウオキヨは、町にとってどんな存在なのだろう。

「ウオキヨにいれば子どもと話ができるんです。都会じゃあ、子どもに話しかけられないでしょう。子や孫が都会に出ていってしまったというおじいちゃん、おばあちゃんも多いけど、ウオキヨがあるから、孫が真鶴に遊びに来てくれるということもあるみたい。私はここの2階で体操教室を開いているんですよ」

一方の鈴木さんは、47年間真鶴で暮らすベテラン町民(?)である。最初は口の重かった鈴木さんだが、真鶴銀座に話を向けると、往時を思い出して陶然としてくるようだった。

「ウオキヨの向いの建物はパチンコ屋だったのよ。パチンコ屋の前は肉屋だった。『平珍』っていう中華料理屋があって、『ツユキ』っていう床屋があって、『まなづる薬局』があって、米屋、豆腐屋、うどんやそばの玉を売ってる麺屋、魚屋、下駄屋……。いま東京海上になってるところは駄菓子屋だったの。昔は漁業で栄えたからね、景気がよかったのよ。店長(伊東さんのこと)のラーメン店は、もとは八百屋だったところだけど、八百屋だけで3軒もあったんだから。

真鶴銀座は駅前とかおおみち商店街よりも賑やかでね、町の中心だった。私たちはマチナカって呼んでたの。少し高い方(駅に近い方)は、ヤマン台って言ってね。マチナカは買い物の時間になると人とすれ違えないぐらい混雑してたんだから、嘘みたいな話よね」

ウオキヨの存在が真鶴銀座の賑わいを取り戻すことにどれだけ貢献するのかは未知数だが、その兆しを感じさせる出会いがあった。辻橋さん親子である。

横浜在住の辻橋さんは伊藤商店の常連で、月に1、2回ラーメンを食べにくる。帰りにはウオキヨに寄って、子どもにお菓子を買うのがルーティンになっているという。

子どもの入店を嫌がるラーメン店もあるが、伊藤商店は違うらしい。

「デビさんも能子さんも、すごく子どもに優しいんです。だから家族のリフレッシュのため、自分へのご褒美のために毎月通っています。ウオキヨの人たちもみんな温かいんですよ」

辻橋さんがこう言うそばから、アヅさんが息子さんにミカンを差し出している。

「また来てね」
「また来るね」

挨拶を交わすと、辻橋さん親子は駄菓子の入った紙袋を抱えて帰っていった。

定期的に横浜から通ってくるとは……。

真鶴は伊東さんの言うように、本当に「深呼吸ができる町」なのかもしれない。

ウオキヨはすでに、真鶴町の核として機能しはじめているのではないか。そんな感想を伊東さんにぶつけてみると、伊東さんはちょっと微妙な表情をした。

いきなり殴られるのか。

「僕が真鶴にやってきたのは、綺麗な言い方をすれば、さっき言ったように奥さんのためです。でも、綺麗じゃない言い方をすれば、役者のため。役者として次のステップに進むためなんです」

役者……。

伊東さんはすでに4年間も伊藤商店の厨房で能子さんとふたり、ラーメンを作り続けている。ラーメン店と駄菓子屋を通して、真鶴への恩返しを実行しているのではないのだろうか。

「コロナの時、僕、3日ぐらいずっと考えていたんですよ。真鶴に移住して、ああして、こうしてって。その時に考えたことを、いま着実にひとつずつ実行に移しているんです。町の人にわかってもらうためにね。ラーメン店で働き続けたのも、そのためです。その先に、大きな物語があるんですよ」

伊東さんは、町のお年寄りたちが真鶴銀座の賑わいや、港の賑わいを語るのを聞くたびに、なぜ、それを子や孫に伝えないのかともどかしく思っていたという。

「それを伝えるには、町の人自身が『この町いいじゃん』ってことに気づかなくちゃいけないんです。そして、昔話をするだけじゃなくて、昔に戻しましょうよって思わないと。僕は、地域の人がその地域の価値に気づくことが、地方再生の原点だと思っているんです。じゃあ、誰か旗振りをしてくれよって言われたら、僕が振りますよ。だけど、いきなり町にやってきた芸能人が旗を振ったって、しょせん芸能人の売名行為だろうってなっちゃうでしょう」

まさに、「テレビの企画でしょう」と言われるのと同じことだ。伊東さんは、それが嫌なのだ。

「だから4年間、黙ってラーメンを作り続けて、ウオキヨをオープンしたんです。小さい町だから、これだけやれば、あいつ本気だなって、みなさんにわかってもらえると思うんです」

たしかに伊東さんの本気度合いはわかってもらえると思うけれど、物語の内容がわからない。

「映画です。真鶴の映画を撮るんですよ。ラーメン店もウオキヨも、そのための伏線なんです」

なんと、役者としての次のステップとは、真鶴を舞台とした映画の撮影だというのである。それを町の人たちに受け入れてもらうために、4年間厨房に入り浸ってラーメンを作り続けたとは! 

例の銀行の融資担当者ではないが、つくづく伊東さんはめんどくさい人だと思う。

「わかりにくい男ですみませんね(笑)。でも、いきなり撮影隊を連れてきて、わーって映画を作ったって、しょせん芸能人のやることだって思われるだけでしょう」

映画のアイデアを語る伊東さんは、熱く、饒舌だった。

「映画は『どんぶりとれんげ』というタイトルの、ラーメンを巡る物語なんですが、映画を公開したら、映画に出てくるラーメンを食べたくなるじゃないですか。だから、それ用のラーメンを伊藤商店で作っちゃう。メニューを全部変えちゃうんです」

一風堂でオリジナルのラーメンを作る修行をしたことが、ここにつながってくるのか。

「そして、撮影に使った場所は、全部、観光名所になるわけです。映画やテレビの影響って、普通は一瞬で終わっちゃうけれど、『寅さん』は違いますよね。『寅さん』を見ると柴又に行きたくなるじゃないですか。山田洋次監督がどこまで考えていたかわかりませんが、ああいう、地域に実際にあるものを使いながら、テレビのドキュメンタリー番組と映画の中間を狙った、新しいエンターテインメントを作るんです。それには町の人の協力が必要だから、僕を信用してもらうために、下地を作るところから始めなければならなかったわけです。映画が公開されて2年後、3年後に町が本当に潤ってくれれば、それが本当の恩返しじゃないですか」

映画制作の話を伊東さんから聞いた時、実を言えば、筆者は半信半疑だった。ありていに言って、夢を語っているだけではないかという疑いを持っていたのだ。

だが、2024年11月、伊東さんは映画の制作を正式に発表している。監督、企画、原案の三役をひとりで担い、早ければ2026年の冬にも公開の予定だという。

制作の発表と同時に、制作費の一部をふるさと納税を利用したクラウドファウンディングで集めることによって、町にお金が落ちる仕掛けも始動させている(「笑顔がある町にラーメンあり」デビット伊東が真鶴で挑む映画づくり)。

本当に本気だったんだ、というのが正直な感想である。そして、伊東さんの壮大な計画と、それを実現に持ち込むまでの胆力に、圧倒されてしまった。伊東さんは真鶴に賑わいを取り戻すという使命を、自ら、勝手に、しかも本気で背負っているのだ。

筆者は、「美の基準」について感じていたうっすらとした疑問に対する答えを、伊東さんから教えてもらったような気がする。

「美の基準」というルールを維持することによって、大型開発や大型施設の建設に歯止めをかけることは素晴らしいことだと思う。それが、真鶴という町のなんとはなしの居心地のよさ、ゆったりとした時の流れにつながっていることは、疑いがない。

しかし、そのよさを守るには、しかも生き生きとした形で守り育てていくためには、ただ理念を語るだけではだめなのだ。4年もの間、厨房にこもってラーメンを作り続け、町の人の中にどっぷりと入り込んで信頼関係を築いていくような、底の入った根性が必要なのだ。

伊東さんは、それを背中で語っているように思う。

『真鶴データブック2023』(真鶴町)によれば、2015年頃から人口の社会増減、つまり転出と転入の差が少しずつ縮まってきており、2020年にはほんのわずかだが転入の方が上回っている。移住者が増えてきたのだ。

ウオキヨが子どもたちの歓声であふれ、真鶴銀座に人の賑わいが戻ってくる日が、やがて、本当にやってくるかもしれない。

取材・文=山田清機
撮影=飯尾佳央

山田清機(やまだ・せいき)
1963年、富山県生まれ。ノンフィクションライター。早稲田大学政治経済学部卒業後、鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』(朝日文庫)、『東京湾岸畸人伝』『寿町のひとびと』(ともに朝日新聞出版)などがある。           

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