90年の時を超えて愛される、「萬壽屋」の変わらない哲学(神奈川県二宮町)|駄菓子屋今昔ものがたり
東京駅から東海道線の下り電車に乗って、風景が変わり始めるのはどのあたりからだろうか。
横浜駅を過ぎて戸塚駅にさしかかると沿線に緑が多くなってくるのだが、明らかに変化したという感じはしない。はっきり変わったと感じるのは、おそらく大磯駅からではないだろうか。
小高い山々が線路に迫り車窓に里山の風景が広がるからそう感じるのかと思っていたが、先日、決定的なことに気がついた。大磯駅にも次の二宮駅にも、駅ビルがないのだ。
ひとつ手前の平塚駅は巨大な駅ビルの一階部分にあるのだが、大磯駅も二宮駅も駅舎とホームしかない。それが、いかにも鄙びた雰囲気を醸し出している。
さて、筆者はこれから駄菓子屋の取材を重ねていこうと考えているのだが、初回に訪問するのは神奈川県の南西部、二宮町にある萬壽屋という店である。
萬壽屋は二宮の宝物とでも言いたくなる駄菓子屋だ。その理由はおいおいお伝えしていくが、ともあれ東海道線を二宮駅で降りてみると、時の流れがとてもゆったりしているのに驚かされる。その一方で訪問者は、のっけから一杯食わされるハメになるのだから面白い。
というのも、二宮駅の発車メロディーが、昔、小学校で習った覚えのある『朧月夜』なのである。駅の北側にある吾妻山(標高136.2メートル)の山頂付近には菜の花畑が広がっており、その向こうに雄大な富士山が見える”絶景ポイント”になっている(見ごろは1月~2月)。おそらく、吾妻山の菜の花畑を見にやってきた人たちは、
「そうか、発車メロディーの『朧月夜』は吾妻山の菜の花畑を題材にして作られたのか!」
と膝を打つに違いない。
ところがよくよく調べてみると、これは一種のフェイントのようなもので、『朧月夜』の舞台は二宮ではなく、作詞した高野辰之の生まれ故郷、長野県永江村(現・中野市)、もしくは飯山市あたりだというのである。いずれも、菜種油を採るための菜の花栽培が盛んな地域だった。
菜の花つながりだけで発車メロディーに使うなんてちょっと安直じゃないかと思いつつ、駅舎から南口のロータリーに降りてくると、今度は「ガラスのうさぎ像」(作・圓鍔勝三)が目に飛び込んでくる。
防空頭巾をかぶりモンペを履いた少女が、摺りガラスのような地肌をしたガラスのうさぎを胸に抱いている。こちらはフェイントではないことが、像の隣にある碑文から知れる。
『ガラスのうさぎ』は、児童向け戦争文学の傑作である。
著者の高木敏子さんは、昭和19年7月にサイパン島を守備していた日本軍が全滅するまで、本所区(現・墨田区)東両国緑町で暮らしていた。
当時、国民学校の6年生だった高木さん(旧姓・江井)は、サイパン島を拠点とした米軍機が東京上空に頻繁に飛来するようになったため疎開を余儀なくされ、「半農半漁の町」二宮の西山家に縁故疎開することになったのである。
ところが翌昭和20年の8月5日、敗戦のわずか10日前、高木さんは迎えにやってきた父親をこの二宮駅の待合室で、しかも目の前で、失くすことになる。米軍艦載機P-51の機銃掃射の銃弾が父に命中したのだ。
『ガラスのうさぎ』にはその瞬間の生々しい描写があるのだが、この作品が小説の体裁をとりながらまぎれもない事実を記録していることは、「戦時下の二宮を記録する会」の会報誌『ひとしずく』第一号(2007年刊)所収の、野谷寿男さんの証言によって裏付けることができる。
野谷さんらの手によって中島医院に運び込まれた負傷者のひとりが、まさに高木敏子さんの父親であった。
二宮駅のホームの屋根には、現在でも当時の木の梁が使われており、梁には8月5日の機銃掃射の銃弾痕が残っている。
「ガラスのうさぎの像」は毎年8月1日から15日まで、二宮町の住民や近県の子どもたちが折った10万羽を超える千羽鶴によって飾られる。
筆者はちょうど8月9日に二宮を訪れているが、かつて「長寿の里」と呼ばれた晴朗な海辺の町が、この日はまるで喪に服しているように静かだった。
*
駅のロータリーの目の前を東西に走っている国道1号線を大磯の方向に少し歩くと、萬壽屋の赤く大きな庇テントが見えてくる。テントは縦方向に長くて、どこか誇らし気だ。最寄りのバス停の名前は「秦野道」である。
引き戸を開けて店内に入ると、三人の女性が出迎えてくれた。店主の西山愛子さん、愛子さんの娘の依里さん、そして愛子さんの姉の恵子さんだ。
イタリア在住の恵子さんは、毎年、夏休みと冬休みの時期、店を手伝うためにわざわざイタリアからやってくるという。
店内には子どもの背丈に合わせた低い平台に色とりどりの駄菓子が所せましと並び、壁際の棚にはコマや刀やゴム製の爬虫類などのオモチャ、時節柄バラ売りの花火も置いてあり、天上からは浮き輪がぶら下がっている。ここは子どもたちのデパートなのだ。
国道側に設置されたワゴンでは野菜を売っているが、これは三人姉妹の長女(恵子さん、愛子さんの姉)で、キウイとみかんの果樹園を営む農家に嫁いだ初恵さんが育てたもの。低農薬で育てられた野菜は、近所の人たちにとても喜ばれている。
恵子さんによると、萬壽屋の創業は祖母の時代にまで遡るという。
「今日から開店ですというようなはっきりとした創業ではなくて、私たちの祖母のアサが巴焼き、いまで言う大判焼きみたいなものを少しずつ売り始めたのが始まりで、ざっと90年は経っていると思います」
その後、アサさんの長男の長吉さん夫婦が跡を継いで店の体裁を整えることになるのだが、それは戦後の話。大正生まれの長吉さんは戦前、文具などを扱う藤沢の問屋に奉公に出ていたという。
6人兄弟の長男だった長吉さんは、抜群に勉強ができた。通知表は甲乙丙の甲ばかり。しかし、経済的な事情もあって進学を断念し、弟妹の面倒を見ながら奉公先を勤め上げた。
恵子さんが言う。
「実の娘が言うのもなんですけれど、父は哲学者、まさに二宮金次郎でしたね。一番下の妹を背負ってお風呂に薪をくべながら、本を読んで勉強したそうですよ。母の清子は縁の下の力持ちで、私たちが小さい頃から、母が寝ている姿を見たことがないくらいの働き者でした。
夜中に目を覚ました時、母がミシンに向かって商品にする名札や紅白のハチマキを縫っている姿を見て、思わず涙が出て、合掌してしまったことがありました。二人三脚で生き抜いた、夫婦の鑑みたいな人たちでした」
苦労も、悔しい思いもたくさんしたであろう長吉さんの”哲学”とは、いったいどのようなものだったのか。
たとえば、万引きである。
萬壽屋にやってくる子どもの中には、まれに万引きをする子がいた。いまなら即座に警察に通報するところだろうが、長吉さんは違った。
たとえ5円10円の商品でもそれは自分が遠方から仕入れてきたものであること、一個当たりの儲けはわずかだけれどそれで生計を立てていること、そうした事情を縷々説明した後に、
「人の物を盗むということがいい事か悪いことか、自分でよく考えてごらん」
と、答えを本人に委ねた。
子どもに自ら考えさせるという長吉さんの姿勢は、萬壽屋の商品にも反映されていた。
萬壽屋は一時期、竹ひごに紙を貼って作る模型飛行機やプラモデルをたくさん扱っていたが、長吉さんは壊れた時に補修するための細かな部品や塗料、交換用のモーターなどを取りそろえて、子どもたちが自ら考え、工夫しながら遊べる配慮をしていたという。
長吉さんの考え方の底には何があったのか。恵子さんはこんなエピソードを覚えていた。
「父の時代、萬壽屋は朝7時頃から、夜は10時ぐらいまで開けていたのですが(長女の初恵さんの記憶では、東海道線の始発から終電まで)、ある、大雨が降っている日の晩に小学校低学年の女の子が、お父さんのお使いで煙草を買いに来たというんですね。父が煙草を手渡すと、女の子はポケットやら何やら一所懸命に探すんだけれどお金がない。たしかに持って出たのにないと……」
きっと家に忘れたのだから、今日は雨だし夜も遅いから家に帰りなさいとでも言うのが普通だろう。
「ところが父は、じゃあおじさんと一緒に探そうと言って、雨の中、懐中電灯を持ってその女の子が来た道を探して歩いたというんです。そうしたら、雨に濡れたお札が、道端の雑草にぴたっと貼りつくようにして落ちていたというわけ。きっと女の子は、その出来事を一生忘れないと思うんです」
駄菓子屋は、子どもがお小遣いを握りしめて買い物をする場所だ。予算の範囲に収まるように自ら商品を選んで、代金の支払いをする。いわば、経済活動を行うわけだ。
予算をオーバーしていたら、子どもだからといって大目に見てはもらえない。買う物を減らして予算内に収めるしかない。駄菓子屋は、大人の世界と子どもの世界が交叉する場所なのだ。
長吉さんはおそらく、経済活動を成り立たせているのはお互いに対する信頼であること、だからこそ、相手の信頼を損なうことはしてはいけないことを、身をもって子どもたちに教えていたのではないか。
万引きがなぜ悪いのかを子ども自身に考えさせ、一方で、お金を持って家を出たという女の子の言葉を信じ切ったのも、長吉さんが奉公生活の中で「信」の重要性を身に染みて学んだ人だったからではないだろうか。
恵子さんによれば、平成14年の夏に亡くなるまで、長吉さんは「ぜーぜーいいながらも」店頭に立ち続けた。
「父が亡くなったとき、たくさんの人が『萬壽屋のおじさんにはいろいろなことを教えてもらった』と言ってくれました。それを今度は、私たちが子どもたちに伝えていかなくてはならないと思っているんです」
*
長吉さん亡き後、萬壽屋を継ぐことになったのは三女の愛子さんである。
聞けば、愛子さんは元々公務員だったという。なぜ安定した職業をなげうってまで萬壽屋を継ぐ決意をしたのだろうか。
「(父も母もお店も)とても慕われていたから、ここでやめてしまうのもどうかなと思う反面、正直なところ、退職まで勤め上げたいという気持ちもありましたね」
長女の初恵さんが長吉さんを手伝っていた時期があったので、仕入れや値付けは初恵さんから教わることができたが、なにしろ勤めていた時のように月々決まった給料が入ってくるわけではない。
「最初はこれでよかったのかなぁ、なんて思いましたよ。でも、私が公務員時代にやっていた仕事は、誰でもできるというわけではないけれど、代わりの人がいる仕事。萬壽屋には代わりの人がいませんでしたからね。苦労はすぐに忘れちゃうたちなので、いまはなんとも思っていません(笑)」
愛子さんが子どもだった頃の萬壽屋は、大きなガラスの蓋がついた「ばんじゅう」に入ったお菓子を、金属製のスコップで掬って量り売りをしていた。大きなガラスの瓶に入った穴あき銭を模したお煎餅も、1枚からバラ売りをしていて、子どもたちに大人気だった。
萬壽屋の全盛期は、袖ケ浦海水浴場と袖ケ浦プールが営業していた時代である。萬壽屋の西側の路地を南に下っていくと海に出るが、かつては監視所のある海水浴場が整備されており、近くには町営のバンガローもあった。海の手前の丘には町営のプールがあって、大勢の人で賑わったという。
「夏になるとたくさんの子どもがお母さんの自転車の後ろに乗せられて、三々五々、うちの横の道を通って海水浴場やプールに行くんです。夕方になると一斉に引きあげてきて、みんなうちに寄るので、もう最高に楽しかったですね。その道、いまでは信じられませんけれど”海の銀座通り”なんて呼ばれていたんですよ」
残念なことに、袖ケ浦海水浴場は平成19年の台風9号の直撃を受けて砂浜が消失。国による改修工事が終わるのは10年後の予定で、それまでは海水浴場として整備されることはない(海に入ることはできる)。町営のプールも利用率の低下や老朽化を理由に平成29年から閉鎖されたままであり、再開するかどうかは未定だ。
それにしても、往時の賑わいぶりを聞くにつけ、二宮という町の成り立ちに興味が湧いてくる。
愛子さんによれば、小さい頃には近所に二宮館、玉川、二葉館といった料亭があり、煙草を配達に行ったこともあったという。いわゆる芸者の”置き屋”まであったというから、別荘街である隣の大磯町とは違う何かが二宮にはあったのではないか。
「ずいぶん昔の話ですけれど、二宮には軽便鉄道というのが走っていたんです。駅の北口の方で、軽便鉄道の碑を見たことがあります」
『湘南を走った小さな汽車』(2013年刊、秦野市・中井町・二宮町・大磯町広域行政推進協議会)によると、愛子さんの言葉通り、二宮はかつて、秦野と結ぶ軽便鉄道の起点・終点だったことがある。
正確には、明治39年に湘南馬車鉄道が営業を始め、大正2年に動力を馬力から蒸気機関に変更。同年、湘南軽便鉄道株式会社に改称し、大正7年には経営権が移転されて湘南軌道株式会社が設立されている。
同書によれば、蒸気機関車時代の軽便は秦野・二宮間の10キロメートルを時速13キロというスピードで50分かけて走ったという。煙突の先端にラッキョウ型の火の粉止めをつけた小さな蒸気機関車は馬力が小さかったため、坂にさしかかると乗客が降りて後ろから押したというから、なんとも牧歌的な話である。
なぜ、秦野と二宮を鉄道で結ぶ必要があったのかといえば、主に秦野の特産品だった煙草を輸送するためであった。『湘南を走った小さな汽車』に、以下の記述がある。
「けいべん」は、秦野地域の特産品である煙草を消費地である東京に送ることを目的に、東京駅と鉄道でつながる東海道線の二宮駅と秦野を結ぶために敷設されたものである。小田原急行電鉄(現在の小田急線)が開業し、東京に煙草を直接運ぶルートが確立して間もなく「けいべん」が終焉を迎えたことが何よりの証拠である。
小田急線の開業は昭和2年だから、それまで二宮は秦野煙草の集積地だったわけだ。前掲の『ひとしずく』から、再度、野谷寿男さんの証言を引用する。
二宮館、玉川、二葉館は、愛子さんがあげた料亭の名前と一致する。いずれにせよ、軽便が走っていた頃の二宮はいわば”交通の要衝”として栄えたわけであり、二宮側から大山詣のために秦野に向かう乗客も多かった。愛子さんや恵子さんが煙草を配達した料亭や旅館は、二宮繁栄の時代の名残と言ってもいいだろう。
湘南軌道株式会社は、秦野と東京を直接結ぶ小田急線の開業と自動車輸送の発達によって経営が悪化し、昭和12年に廃業しているのだが、ちょっと面白いエピソードが残っている。
軽便鉄道がまだ健在だった時代、小田急から買収の話があったというのである。しかし、小田急側が4万円という買収金額を提示したのに対して、軽便側は7万円でなければ応じないと強気に出て、交渉は決裂してしまった。(出典:『二宮の昔ばなし』二宮町教育委員会)
もしもその時、軽便側が買収話を受け入れていたら、小田急線は秦野から二宮まで支線を延ばしていたかもしれないのだ。そして、小田急線が東海道線と接続していたら、いまごろ二宮駅は大きな駅ビルになっていたかもしれない。駅周辺には、店舗があふれていたかもしれないのである。
しかし、そのような町で、果たして萬壽屋が存続できたかどうか。信義よりもコストや効率が優先されるような町で、長吉さんの哲学は生き残っただろうか。そして、あの機銃掃射の痕跡は……。
後日、軽便鉄道の駅舎だった建物(湘南軌道本社屋)が残っているというので、北口周辺を探してみた。
たしかに建物は残っていたが、大正時代に建設された洋館の特徴をそのまま残していたという二階部分はすでに取り壊されており、おそらく補修を重ねたであろう一階部分の外観に、それらしき面影はなかった。
少々落胆していると、建物の横にある駐輪場で意外なものを発見したのである。月極の駐輪場に、こんな看板が掲げてあった。
湘南軽便駐輪場
さっそく駐輪場を管理している不動産会社に電話を入れてみると、土地の所有者の意向によって「軽便」の二文字を入れたということであった。
思いがけない形で「軽便」に出会うことができて、私は妙に嬉しかった。歴史は展示物にされてしまうととたんに色あせてしまうが、記念碑や碑文ではなく、現役の看板の中に「軽便」が使われているのだ。
そこに、時の流れに抗おうという意思を感じるのは、私だけだろうか。
*
さて、三人姉妹の祖母・アサさんから数えて四代目に当たるのが、愛子さんの長女、依里さんである。
現在はリモートワークを活用しながら、本業のかたわら萬壽屋の手伝いに入っているが、いずれ萬壽屋を継ぐ気持ちはあるのだろうか。
「悩ましいですよね。コンビニやスーパーでも駄菓子や花火を売っていますし、子どもも減って、海水浴場もプールも休止になってしまって。でも、萬壽屋がなくなってしまったら二宮の町がもっと寂しくなってしまうとも思うので、とても悩ましい状態です」
平成28年に二宮町がまとめた「二宮町人口ビジョン」によると、二宮町の人口は平成11年の約3万1000人をピークに減り続け、平成27年の総人口は約2万8000人。同じ年の高齢者人口(65歳以上の割合)は31.5%で、すでに超高齢社会に突入しているという。
愛子さんが依里さんの言葉を継ぐ。
「駄菓子屋は10円、20円の積み重ねですからね。経営的には厳しいですよ。だからというわけではないんですが、今年からソフトクリームを始めたんです。海に行けなくなったりして、ちょっと二宮が暗くなっちゃった面もあるので、少しでもみんなが明るくなったらいいと思って。お年寄りがソフトクリームを楽しみにしてくれたりするんですよ」
萬壽屋は子どもだけでなく、お年寄りがソフトクリームを肴に会話を楽しむ場でもあるのだ。
たしかにソフトクリーム型の愛らしい看板は、町の賑やかしになっているのかもしれない……などと思っていたら、真っ赤なポロシャツを着た男性が唐突に店内に入ってきて、カウンターの内側にドスンと座ってしまった。
恵子さんが「夫のミケランジェロです」と紹介してくれる。
ミケランジェロといえば、有名な画家がいたが……。
「ああ、あれは僕の弟ですよ」
それにしても流暢な日本語だ。
「日本語が上手なフリをするのがうまいんです」
なんでも、恵子さんがイタリアの音楽大学に留学している時に知り合ったそうで、プロのバイオリニストだという。
長吉さんが存命の時代は貴重な男手としてずいぶん頼りにされたそうで、いまも夏休みと冬休みは萬壽屋を手伝うため、恵子さんとともにローマから駆けつける。
「萬壽屋は、イタリアでは有名なお店だからね」
ミケさんの口からは、冗談とも本気ともつかない言葉がポンポンと飛び出してくる。
「写真は上半身だけにしてね。僕、足が臭いから!」
和太鼓の保存会にも参加していて、「萬壽屋のミケさん」が地元に定着しつつあるとか。ソフトクリームの看板と並べては失礼かもしれないが、ミケさんも二宮町の賑やかしとして、すでに重要な存在になりつつあるのかもしれない。恵子さんが言う。
「萬壽屋さんがあるから、夏休みに孫が二宮に来てくれるというお客さんもいるんですよ」
駄菓子屋は、ただ懐かしいばかりの存在ではないのだ。
そう言えば、筆者の小六になる息子が七夕の短冊に思いがけない願いごとを書いていた。
「二宮の駄菓子屋さんに、もう一度行けますように」
取材・文=山田清機
撮影=飯尾佳央
▼マガジンのフォローをお願いします!