空を見上げて、飛んでいるものを追っかけて笑顔になれる。それが尊い日常ってやつだ。(宮城県石巻市 石巻市民球場)|旅と野球(4)
「日常の尊さって、なくなってはじめて分かるんですよ」
そうなんでしょうね。畳店の主人の言葉に頷きながら、僕は少し前に名古屋の住処のそばにある公園で見た草野球のことを思い出していた。
巷の正月休みもそろそろ終わりを迎える休日だった。
大柄な少年が打席に入り、ユニフォームを着た子どもたちが守備についていた。地域の少年野球チームの練習試合なのだろう。審判はコーチらしき男性で、周りにはベンチコートを羽織った母親たちが見守っている。
公園の隅っこには、孫との凧揚げを楽しむ老夫妻の姿もあった。
今日みたいに晴れていて、少し肌寒い昼下がり。まさに絵に描いたような日常の光景だった。
「昨日まであった雪雲がなくなりましたからねえ。だから、ブルーも飛んだでしょ」
こちらの考えを読み取ったかのような主人の言葉に、僕は空想の世界から現実に戻った。
「ええ、ようやく、でした」
ここは宮城県東松島市。
アクロバット飛行チームとも呼ばれる「ブルーインパルス」の取材で、この街の海沿いにある彼らの拠点、航空自衛隊の松島基地にきていた。
数日前からいるのだが、強風で飛べない日が続いた。訓練で飛んでいるところを是が非とも写真におさめたいが、天候ばかりは誰にもコントロールできない。運がなかったと半ば諦め、次善の策を練っていたが、予備日として取っていた今日、ようやく風が幾分かおさまり、彼らは空を飛んだ。
その撮影は取材チームに任せて、僕は街の人たちに話を聞きにきていた。
* * *
「確かに野球場、多いかも」
畳店の前に訪問した刺繍店の代表の女性は、そう言って、ここはスポーツが盛んな地域だと思うし、と続けた。
前日までの空いた時間で、僕はこの地域の球場をいくつか回った。街中にある小さな球場や、津波で流されたJR仙石線の旧路線跡のそばに設けられた球場、隣の石巻まで足を伸ばした先で訪れた市民球場。
僕が訪れたことがある他の地域よりも、野球場の数が多い気がした。震災後にできた球場もあったが、ほとんどは古くからある施設に見えた。彼女が言うように、球技を楽しむ土壌が元からある土地なのだろう。
とはいえ、今はシーズンオフ真っ只中である。プロ野球の世界では、大物選手の契約更改や移籍のニュースが続々と出てきて、その度に僕は来るシーズンの順位予想をこまめに更新していた。だが、球春到来を知らせる新井貴浩監督の護摩行と、今宮健太選手の寒行が行われるまで、もう少し間がある。まだ多くの選手たちは昨シーズンの疲れを癒すことを優先しており、希望する者だけが自主的なトレーニングを行なっている段階である。
そんな真冬の、しかも平日に野球を楽しむアマチュアなどいるはずもなく、どの球場を訪れても、うすら寒い風景が広がっていた。
「確かに、野球の季節じゃないですよねえ」
と笑う代表は、ブルーインパルスをモチーフにした刺繍作品を制作、販売していた。
「空を見上げると、飛んでいたんですよね」
それまで、さほど気に留めていなかったブルーインパルスのことを懐かしく思ったのは、東日本大震災の数ヶ月後のことだった。発災時、彼らは、九州新幹線開業の記念式典で祝賀飛行を行うために、福岡県の基地に移動していた。機体は無事だったが、松島基地が津波の被害を受け、復旧作業がひと段落するまでは帰還することができなかった。
「ようやく戻ってきた時に、あの大きなジェット音が聞こえてきてね。それで『前』の暮らしが戻ってきたって実感できたんです。そして、私たちの日常になっている飛行機が、多くの人を勇気づける存在でもあるってことが嬉しいな、と素直に感じたんです」
刺繍のモチーフにしたのは、その時の感動を形にしたいという思いがあったから。今まで続けてきたのは、被災した自分たちが継続することに、意味があると信じているから。
そんな話を訥々と語り続ける彼女が、言葉をふと途切れさせた。
「今、大変な目に遭っている方たちがいるじゃないですか。少しでも元気づけることができないかって」
そう言って目を潤ませる彼女に、僕は相槌を打つことしかできなかった。
* * *
「前は、やかましいなあとすら感じていたんですけどねえ」
畳店の主人は、ブルーインパルスをあしらった畳縁を考案し、それらを使ったアクセサリー類は人気商品となっていた。モチーフにしたわけを聞くと「自分たちの生活の一部でもあり、一歩ずつ歩んでいこうという思いの象徴」である、と理由を語った。
「うちも津波の被害にあったんです。幸いなことに家族は無事でした。でも、街の被害はとても大きかった。消防団員だったこともあって、復旧のための活動をしていたんです」
瓦礫から遺体を運び出すといった作業が続いた。叫び出したくなるような日々の中、正気を保つには、心を閉ざすしかなかった。喜怒哀楽を出さなくなると、表情も強張ったままになった。
何ヶ月かが経ったある日、不意に聞き慣れたジェット音が耳に入ってきた。
「その音を聞いて『ああ、やっと日常が戻り出したんだなあ』って。そう思った途端、涙が止まらなくなってね。感情が一気に溢れてきて。震災にあってから、はじめて泣けたんです」
何度も、何度も話してきたことなのだろう。滑らかな語り口だった。自分の中でも、ある程度は整理されている話のはずだ。でもある日突然、それまであったものを失うという理不尽に対する折り合いは、いつまで経ってもつくはずがない。
「そう。日常の尊さって、なくなってはじめて分かるんですよ」
同じ言葉をもう一度、主人は口にした。
「今は、小学校とかで防災に関するお話をすることもあるんです。そういう時にはね、必ず子どもたちに、今ある日常がどれだけ貴重か、おはよう、ただいまって言えることがどれだけ素晴らしいことかを、伝えるようにしているんです」
それが、一度失ったことがある自分たちの義務だと思っているんです。
力を込めて語る彼にもまた、僕は相槌を打つことしかできなかった。
「野球場見てきたんですよ。今は雪に覆われているけど、春になったら、また野球始まりますよね」
取材を終えてから、そう問いかけると、主人は明るい顔になった。
「そうそう、また始まりますね、野球の季節が」
* * *
街での取材がひと通り終わって時計を見ると、基地の中で取材するチームと合流するまで、少し時間があった。主人の最後の言葉が頭に残っていた。
もう一度、石巻市民球場に行ってみることにした。
空は次第に曇り出してきた。仙台に住んでいた学生時代、朝晴れていても、午後にはほぼ間違いなく雲が出てくる天気にうんざりしていたことを思い出しながら、球場までクルマを走らせ、バブアーのジャケットの前をきっちり閉めてから、誰もいないスタンドに上がった。
予想以上に冷たい風が吹く内野席の先には、誰もいないグラウンドが広がっていた。
この球場もまた、東日本大震災で被災している。その復旧のため、米日カウンシルやメジャーリーグベースボール機構、同選手会といった団体が立ち上げた「TOMODACHIプロジェクト」が集めた寄附金が活用されている。
野球が少しでも早く再開できるように、という彼らの思いが形になったことを記録するためだろう。ホームベース付近には、TOMODACHIの文字とMLBのロゴが記されている。
社会人野球の大会も開催できるほどの広いグラウンドを見ていると、名古屋で見た草野球の映像が再び蘇ってきた。
プレイボールがかかって程なく、大柄な少年が大きな飛球を打った。抜けるかと思った刹那、背走していた外野手がジャンピングキャッチを決めた。これは見事だ、有望株だと目を凝らすと、捕った人物は大人だった。どうやら人数が足りなくて、コーチである父親たちがサポートに入っているようである。やんやの喝采を浴びたコーチ氏は、満更でもなさそうに片手をあげている。
そのまま見ていると、今度は別の大人の男性が打席に入った。そして小学生と思しきピッチャーの球を大人気なくフルスイングすると、高く上がった打球が今度は外野の頭を超えて、ランニングホームランとなった。再び母親たちの歓声を受けて、別の男が打席に立つ。どうやら、メンバー不足をダシに『野球の真髄を教えてあげる』という名目の元、コーチ陣が先を争って打席に立とうとしているようだった。その教えを受け取ろうと真面目に考えているのだろう。一球ごとに腰を落として打球に備える健気な少年たちに同情しつつ、僕は大人たちの生き生きとした表情に思わず笑いがこぼれてしまった。
冷たい突風に再び現実に戻されると、誰もいないと思っていたグラウンドに作業服を着た男たちが入ってきているところだった。見ていると、各塁上にブルーシートを被せている。冬の間に、グラウンドの養生を行うのだろう。
春になったら、ここでさまざまな試合が繰り広げられるのだろう。
また、始まりますよ。心の中で、畳店の主人に答えてから、僕は、取材チームとの集合場所に戻ることにした。
球場の手前にはサッカー場が広がっていた。その立派さは、球技が盛んだという刺繍店の代表の言葉の信ぴょう性を否応もなく高めていた。
「うちの子どもは、サッカーをやっていたんですよ」
僕が全国の野球場を見て回っていると話すと、彼女は、野球の話じゃなくてごめんね、と律儀に断ってから、震災後の話をしてくれた。
「近所の人がね、息子が津波で泥だらけになったユニフォームを自分で掘り出して、洗っていたよって教えてくれたんです。見ていて、涙が出てきたって」
私はその姿は見ていないんだけど、と笑ってから、また間が空いた。
「少しずつ、ほんとに少しずつだけど、日常が戻ってきて。あの時から、ずいぶん時間が経ったなあって」
淡々とした、でも、よどみのない口調は、彼女がその時から続けてきた歩みの確かさを端的に表現していた。
当時、僕は東京の郊外に住んでいた。計画停電で真っ暗な夜道を歩きながら空を見上げると、驚くほど明るく星がまたたいていた。家にいる子どもたちにも教えたいな、でももう寝ているかな、そう考えることで、行き場のない不安をいっとき紛らわせていた。
あの時、幼稚園に通っていた子どもたちは、今はそれぞれの進学で家を出ている。
大学生の娘は、家族ラインでこの連載の中で自身があまり登場していないことに憤慨し、高校生の息子は、帰省時に中日ドラゴンズのかつての本拠地で、今は練習場になっているナゴヤ球場におもむき、中に根尾昂や鵜飼航丞がいるらしいと通りすがりのファンに教えてもらって静かに盛り上がっていた。
ここまで、色々あった。だが、とにかく彼らが、自分の人生を歩いている。そう実感すると、あの時からの道のりに、大きくため息をつきたい気分になった。
「とにかく、続けることなんです。一歩ずつ、歩き続けるように、私たちのできることを続けることなんです」
何度もそうくり返した刺繍店の代表から手渡されたパンフレットには、地元の女性たちが縫い上げた空を飛ぶ「彼ら」の刺繍をバックに、コピーが書かれていた。
『ブルーインパルスは希望の翼を広げて 私たちの街を飛んでいます』
* * *
正月休みの名古屋の公園の空には、松島の空を飛ぶ「彼ら」の代わりに、男性コーチが打った白球が飛んでいた。
かえすがえすも、大の大人が大人気ないという話である。
だが、それを見上げて、子どもたちは必死に追いかけ、母親たちは黄色い声をあげて、コーチ陣は満面の笑顔でグラウンドを走り回っていた。
名古屋の彼らは、そこにある日常を心ゆくまで楽しんでいた。だから、僕も心の中で意地悪を言いながらも、寒空の下、飽かずに試合観戦を楽しむことができた。
楽しんでいるのだったら、競技の種類はもとより、レベルの高い低いだってまるで関係ない。平穏をもたらすものだったら、空を飛ぶものもなんだっていい。そうですよね。今度は、刺繍店の代表に心の中で語りかけた。
クルマを走らせる道の先に、松島基地の管制塔が見えてきた。
あの下で、飛行訓練を終えたブルーインパルスの機体は、羽を休めているはずだ。
春になったら、東松島でも石巻でも名古屋でも、そして能登でも、皆が空を見上げて笑う日常が来ますように。
雲の切れ間から、いっとき顔をのぞかせた夕焼け空に向かって、僕はそっと祈った。
文・写真=服部夏生
イラスト=五嶋奈津美
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