家康も帰依した僧・天海が“京の都”を模して造った上野寛永寺|オトナのための学び旅(2)
小学生を相手に社会の授業をしている中で、「寛永寺に行ったことがある人はいますか?」と聞いて「あります!」と答えるお子さんはほとんどいません。ただ、首都圏であれば実際には多くのお子さんが一度は足を踏み入れている、そんな少し不思議なお寺が東叡山寛永寺です。
西の比叡山延暦寺、東の東叡山寛永寺
江戸時代、芝の増上寺とともに、徳川将軍家の菩提寺とされた寛永寺は、現在の上野公園のほぼ全域を境内とする大寺院でした。創建は1625年(寛永2年)。家康から家光までの3人の将軍が帰依し、政治にも影響力を発揮したと言われる僧・天海*によって開かれました。
古来、陰陽道において北東(丑寅)の方角は「鬼門」と呼ばれ、鬼が出入りする忌むべき方角とされました。そのため、天台宗の開祖・最澄が平安京の北東に開いた比叡山延暦寺には、都を霊的に守護する役割が期待されていました。
その比叡山に対応するように、天海が江戸の北東に配置したのが、「東」の比「叡」山、東叡山です。寺の名が創建当時の元号である「寛永」からとられているのも、同じく当時の元号から「延暦」寺と名付けられた比叡山にならってのことだそうです。
江戸時代には日本最大級の寺院のひとつとして発展した寛永寺でしたが、その栄華はやがて徳川の世の終焉とともに失われていきます。
明治新政府軍と旧幕府軍が衝突した戊辰戦争は、1868年の京都、鳥羽伏見の戦いから始まり、1869年の五稜郭の戦いまで続きました。途中、西郷隆盛と勝海舟の交渉によって江戸城における決戦は回避されましたが(無血開城)、その直後、彰義隊として抵抗を試みた旧幕府軍と新政府軍が上野で衝突しました。この「上野戦争」において、寛永寺の堂宇の多くが焼け落ちてしまいました。その後の明治政府による神道重視の政策や、東京大空襲などによって失われた堂宇も少なくないようです。
現在の寛永寺の本堂にあたる「根本中堂」は、JR山手線の鶯谷駅から徒歩で10分もかからないところにあります。東叡山の根本中堂は、もとは現在の東京国立博物館の側の大噴水周辺に存在していました。ただ、これも先の上野戦争の際に焼失し、現在の根本中堂は明治に入ってから川越喜多院の本地堂が移築されたものです。
根本中堂には天台宗の開祖、最澄の作とされる薬師瑠璃光如来像が祀られています。近くに寛永寺幼稚園があり、お参りをしていると子どもたちが元気に遊ぶ声が心地よく聞こえてきます。
寛永寺全体も京の都がモチーフに
根本中堂を出て、徳川将軍のうち6人が眠る霊廟の前を通り、右に曲がってしばらく歩くと「開山堂」に着きます。ここには寛永寺の開山である天海(慈眼大師)と、彼が尊崇していた良源(慈恵大師、912-985)が祀られていて、「両大師」として慕われています。
良源は平安時代中頃に大僧正として活躍し、「延暦寺中興の祖」と呼ばれた僧です。その法力の強さゆえに「角大師」「豆大師」などとも呼ばれ、天台宗の多くの寺では彼にちなむ厄除けの護符を授かることができます。開山堂の中でも、あちらこちらで「角大師」のモチーフが目に入ります。
開山堂の門を出ると、すぐ右手に国立科学博物館前の巨大なシロナガスクジラの像が見えます。そのまま道路を渡って科博の前を進み、国立西洋美術館や東京文化会館を左手に見ながらさらに歩くと、やがて「清水観音堂」が目に入ってきます。
これも天海によって建立されたお堂で、その名の通り、京都・東山の清水寺を模した「舞台」が設置されています。その舞台にのぼり、歌川広重も浮世絵に描いた「月の松」を覗くと、その向こうには不忍池に浮かぶ、こちらも天海によって建立された「辯天堂」を見ることができます。
不忍池を、比叡山から見渡せる琵琶湖に見立て、さらに琵琶湖内の小島にあった「宝厳寺」に見立てて建立されたのが「辯天堂」だそうです。天海が、比叡山に限らず、京の都そのものをモチーフにして寛永寺全体をデザインしていたことがよく分かります。
その清水観音堂から上野精養軒の方向に少し歩くと、「上野大仏」があります。といっても、現在残されているのは大仏の顔のみです。寛永8年に建立されて以来、倒壊と修復を繰り返してきたそうですが、関東大震災の際に頭部が落下し、修復されないまま、戦時中の金属供出の対象として胴体が回収されて今の姿になってしまったとのことです。とはいえ、転んでもただでは起きないのが上野大仏で、現在では「これ以上落ちない」合格祈願の大仏として、多くの受験生が参拝に訪れています。
私自身、学生の頃、この付近に下宿していたこともあって、上野公園の中にところどころ歴史的な建造物があるのに気づいてはいました。恥ずかしながら当時は、「寺社仏閣が多いな」くらいにしか思っていなかったのですが、あらためて事前に調べて歩くと様々な発見があり、知識は世界の解像度を上げてくれるのを実感できます。
東叡山寛永寺は2025年に創建400周年を迎えるとのことで、今後、関連イベントも多く企画されるかもしれません。動物園や博物館をはじめ、魅力的な施設が数多く並ぶ上野公園ですが、ときには寛永寺を構成する仏閣に目を向けて歩くのも一興です。
◇◆◇ クイズ ◇◆◇
【問1】
寛永寺は天台宗の寺院です。
日本における天台宗の開祖は「伝教大師」とも呼ばれる最澄ですが、さて、彼が唐に渡って仏教を学んだのは、主に何時代のできごとでしょうか。
ア:奈良時代
イ:平安時代初期
ウ:平安時代中期
エ:鎌倉時代
【問2】
寛永寺の発展に大きな貢献をした江戸幕府三代将軍・家光の治世中、日本ではいわゆる「鎖国」政策が大きく進みました。ただ、そのなかでもいくつかの窓口は海外に開かれていました。窓口となった藩と相手国の組み合わせを整理した次の表の①②にあてはまる言葉はなんでしょうか?
松前藩 ー アイヌ
( ① )藩 ー 朝鮮
薩摩藩 ー( ② )
長崎(出島)ー オランダ
長崎(唐人屋敷)ー 明・清
*正解は、この記事の末尾に掲載しています。
文=馬屋原吉博
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◇◆◇ クイズの答え ◇◆◇
【問1】正解:イ
最澄は8世紀後半から9世紀前半にかけて活躍した僧で、彼が遣唐使船に乗って唐に渡ったのは804年頃のことです。桓武天皇が都を平安京に移したのが794年ですので、正解は「イ」の平安時代初期です。奈良時代の僧としては行基や鑑真、道鏡、平安時代中期の僧としては、いわゆる浄土教を広めた空也や源信、鎌倉時代の僧としては法然や親鸞、一遍、日蓮、栄西、道元らが、それぞれ広く知られています。
【問2】正解:①対馬 ②琉球王国
現在の教科書では、鎖国中も海外に向けた幾つかの窓口があったことが強調されています。対馬藩を支配していた宗氏は、秀吉の朝鮮出兵で破綻した朝鮮との関係を取り持ち、将軍の代替わりごとに朝鮮から通信使が送られることとなりました。薩摩藩は琉球王国に軍事侵攻しましたが、滅ぼすことはせず、間接的に支配する道を選びました。