青い夜があった|曽我部恵一(シンガーソングライター)
2014年に「bluest blues」という曲を出した時、奥日光でミュージックビデオの撮影をした。
奴隷として虐げられた黒人たちが自分たちの悲哀を歌ったのがブルースという音楽で、”bluest blues”という言葉があるのかどうか知らないが、ぼくも当時の自分の落ち込んだ気持ちを表現したくて「いちばんブルーなブルース」というつもりでタイトルにした。
妻と別居してまだ日が浅い頃だった。子供たち3人はぼくと残った。その時期は何をしても失われた家族の像が亡霊のようにぼくに取り憑いて、気分が晴れなかった。静かな夜だけが、自分の心に寄り添ってくれるようで、夜を待って歌を作ったりした。そんな中から生まれた曲だった。
映像を作るにあたって、静かで冷たい、人や文明が作ったものは何ひとつ映らないような夜がある場所へ行ってみたかった。いつも映像制作の世話をしてくれるCくんのご実家が奥日光でお土産屋さんを営んでいるということで、「奥日光、けっこう良いですよ」と言われ、そこへ行くことになった。
日光からさらに山を登っていく。いろは坂というひたすらカーブが続く山道をひたすら進むと、中禅寺湖があり、奥日光に辿り着く。二月の奥日光はシーズンオフで人影はまばらだった。夜になると空気は氷のように冷たくなった。
Cくんの親戚が経営している中禅寺湖畔のかわいらしいペンションで撮影した後、深夜、クルマでさらに山を登った。ときどき、鹿の親子が登場した。クルマのヘッドライトに照らされ、目だけが先にぎらりと緑色に光るので驚いた。登ったところにひらけた場所があった。そこで降りて、少し歩いた。真夜中の空気は冷たく澄んでいた。混じり気のない純粋な夜の空気。風はなく、月光が照らし出す夜だけがそこにあった。
カメラマンのSくんとCくんとぼくだけ。シンプルな撮影だった。歩きながら、日々のことを考えようとした。これからの自分や子供たちのこと。いびつになってしまった家族というカタチがこの先どこへ向かうのか。そんなことなどを。しかし、その時期ずっとぼくの心を占領していた鈍色の雲のような重い気持ちは、その夜だけはどこかへ行ってしまったようだった。何も考えず、空っぽの心のまま、ぼくは夜の中を歩いた。
月がとても明るく、あたりは青一色の世界だった。
後にも先にもあのように青い夜は見たことがない。どこかで狐が「こん!」と短い啼き声をあげた。「あ、狐」とぼくたちは言った。
それから時間がたって、その時付き合っていた女性と一緒に、再びその場所を訪れたことがあった。「ぼくが考えるいちばん美しい夜があるんだ」とかなんとか言って。空気は澄んでいて、気持ちの良い休暇だったが、真夜中に出かけて行った山の上では、青い夜に包まれることはなかった。鹿はいたが、そこはただただ真っ暗な夜だった。クルマを停めて降りてみるが、ヘッドライトを消すと闇だった。
「なんだか暗いね」と言いながら、ぼくたちは山を降り、泊まっていたペンションに戻った。彼女は、すこし拍子抜けしている様子だった。
翌朝、ペンションで食べた朝食は腰が抜けるほど美味しかった。秋晴れの中、中禅寺湖畔で写真を撮ったりして、また来ようねとは言ったが、すぐにお別れしてしまった。
こう書くと幻のようではあるが、忘れがたい青が確かにあった。いつかまたそこに戻りたいとずっと思っている。
文=曽我部恵一
◇◆◇ お知らせ ◇◆◇
サニーデイ・サービス『Live!』
リリース決定!
▼「あの街、この街」のバックナンバーはこちら