日本人にとって花は人生の師匠のような存在|花の道しるべ from 京都
アートアクアリウムアーティストの木村英智氏から、一本の電話がかかってきた。彼が発案・確立したアートアクアリウムは、趣向を凝らした美しい水槽の中で舞い泳ぐ金魚や鯉を、照明やプロジェクションマッピングで幻想的に演出するもので、国内外で大きな評判を呼んでいる。無類の車好きとしても知られる彼は、2016年の秋に、世界の名車が二条城に集う『ARTISTIC CARS AT THE WORLD HERITAGE』の開催を計画しており、その会場をいけばなで彩ってほしいとの依頼だった。前々から何か一緒にやりたいねという話をしていて、今回声をかけてくれたわけだ。
二代目家元・祖父の教えと世界遺産・二条城の制約
空間も企画もとても魅力的で、二つ返事で引き受けたが、解決すべき問題が2点あった。1点目は、期間が10/28~12/11までと、1か月を超える長丁場であること。2点目は、世界遺産でもある国宝・二条城内は、水の使用が厳しく制限されていることだ。
フラワーアーティスト、通常、作品を完成させるまでを担当し、手直しは花店員やスタッフにまかせることが多いが、華道家の考え方は、少し異なる。私の祖父は、作品を出瓶するというのは自分の顔を出しているようなものだからと、必ず毎朝、自ら手直しに行っていた。幼い頃よりその姿を見て育った私も、できる限り自分自身で手直しするように刷り込まれている。
この違いは、フラワーアートといけばなの発想の違いから来ているのだと思う。フラワーアートは、最高の瞬間を演出するもので、満開の花をたくさん敷き詰めて花のカーペットを作る。これに対して、いけばなでは、「蕾がちにいけよ」と教わる。開いた花があってもよいが、必ず蕾を残す。蕾はやがてほころび、盛りを迎え、ついには散る。そんな花の命の移ろいを最後まで見届ける中で、私たちは何かを感じずにはいられない。太陽の方を向いて咲く花からは、逆境でも向上心を持って生きることを。つぼみが徐々に開く姿からは、年齢を重ねていくことの素晴らしさを学ぶ。日本人にとって、花は、自己表現のための道具ではなく、私たちに様々なことを教えてくれる人生の師匠のような存在なのだ。
もちろん今回も、できる限り私自身が手直しに行けるように調整したが、さすがに1か月以上の会期になると、その間には泊りがけの出張も入るので、花に込めた想いや花に向き合う姿勢を共有している流派の先生方に分担して手直しに行ってもらうことにした。
2点目は、特注の花台を作ることで解決した。幅130cmの大水盤を花器に用いたのだが、その3倍幅の花台を準備してもらった。この花台の中には、特大の水槽が仕込んであり、万一、花器の水がこぼれたとしても、その水槽で水を受けられるという仕組みだ。
旧暦の七十二候に合わせて花をいけ替え
さて、ようやく肝心のいけばな作品にとりかかる。長丁場となるため、まずは、枝ぶりのよい黒松を主材に選び、水盤の中に収まる大きさの板に打ち付ける。松はかなりの重量だから板の上に小石を敷きつめて安定をはかる。足もとに添える季節の花は、旧暦の「七十二候*」に合わせて5日ごとにいけ替えることにした。「楓蔦黄」なら、黄色や橙、茶系統の菊を用いて。
「山茶始めて開く」には山茶花、「地始めて凍る」は十月桜など白い花を霜柱に見立て、「金盞香」なら水仙といった具合だ。
近年、二十四節気*や七十二候が見直されてきたのは嬉しい傾向だ。旧暦を知ると、自然との距離がぐっと近くなる気がする。より良い未来をつくるために、SDGsやカーボンニュートラル、グリーンリカバリーといった新しい考え方を浸透させることも必要だが、まずは日本人が昔から大事にしてきた自然観を見直し、共有することからはじめてみたい。
文・笹岡隆甫
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