サイパンに残る“日本”|千住 一(観光学者)
兎にも角にも暑かった。場所はサイパン、2週間ほどいただろうか。何年何月何日から何日間の旅だったか、調べようと思えばすぐに分かりそうなものを、いまはその気にならない。唯一手がかりになりそうなのは、日本と韓国でサッカーのワールドカップが開催されている最中のことで、現地のこどもに日本代表チームの調子を聞かれた記憶か。
極東でサッカーボールが行ったり来たりしているあいだ、ぼくはサイパンでたくさんの「日本」と向かい合っていた。第一次大戦でミクロネシア一帯を占領した日本は、建前的には国際連盟から委任されるかたちで、サイパンを含めたそれらの地域を統治し続ける。なかでもサイパンは日本からの船が最初に着く島として、また、製糖業の本拠地として繁栄し、当地に立ち寄った中島敦はそこで岩波文庫が買えることの喜びを妻に書き送った。
そんなサイパンで、ぼくはいまだ残っている「はず」の日本の姿を求めた。博物館では当時の様子をうかがい知れる展示が常設されていたし、日本統治時代につくられた建物のいくつかは、用途を変えながらも使われ続けていることを知った。時間だけはあったから、「悲劇」の現場にもできるだけ足を運ぶよう心がけた。そう、サイパンは先の大戦でアメリカ軍との戦場になり、日米双方から多くの犠牲者が出ている。
そうしたひとたちを悼む慰霊碑や戦闘の様子を記録するモニュメントは、街中にない。サイパンに着いてから慌てて買った日焼け止めと麦わら帽子を相棒に、確か赤い色のレンタカーで島のあちこちまで出かけていった。よく知られる「バンザイクリフ」から海岸で朽ち果てつつあるトーチカまでいくつもの「戦跡」を目の当たりにしたが、それらの背景にはいつも眩しすぎる空と青すぎる海があった。
日本を出発する前、サッカー好きの友人にサイパン行きを告げた時のことを思い出す。彼の顔には明らかに戸惑いの表情がみて取れた。せっかく日本でワールカップを体験できるチャンスなのに、と。果たしてぼくは、せわしなく動きまわる代表選手の背中を追いかけるよりも、繁華街でユニフォームを纏った見ず知らずのひとたちと交歓するよりも、かの地ではっきりと日本という存在をかみしめていた。
帰国する数日前だったか、空港近くに残る防空壕を訪れた。そろそろ夕飯に呼ばれそうな時間帯、一日の終わりを惜しむかのようにこどもたちがそのまわりを走り回っている。あのコンクリートの塊が何か知ってるのかなとも考えながら、そこに「ある」ものを「ある」ものとして受け入れている光景が妙に引っかかった。あのこどもたちは、いまも防空壕の傍らで日々を送っているんだろうか。
出発前日、はじめて街中にある免税店に足を踏み入れてみた。寒いくらいに冷房が効いていることに気がついて、早く涼みに来ればよかったと今更ながらに後悔したけれど、店内をみて回る気が起きず、ブランド物のバッグや香水の匂いに囲まれながらひとりソファーに座り続けた。しばらくして餞別をくれた父親にとイタリア製だかフランス製だかのネクタイを掴みとり、精々店を後にした。値段はもちろん、色も柄も覚えていない。
文・写真=千住 一
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