踏みたいアスファルト|真輝志(お笑い芸人)
インバウンドの権化のようなしゃぶしゃぶ屋で働いていた。関西国際空港行きのバスターミナルが近いため、観光客がメインターゲットのバイト先。一度インドネシアの女性客から現地の言葉で話しかけられ、わからないなりにYESを連発していると、ツアーガイドが飛んで来て「本当に結婚するんですか?」と尋ねられ驚いた。インドネシアのテンポ感を舐めて接客すると家庭を持つことになる。それなりに忙しい店で体力を奪われたが、生活のためにも最低限のお金は稼ぐ必要があった。
実家を出てから初めて住んだ町、大阪市の稲荷。芸人同士のルームシェアで、オートロックはなく古い外観のマンションだが、部屋は綺麗で家賃も安かった。バイト先も近く、散歩していると海外の人をよく見かけた。引っ越したての頃、欧米の男性にホテルまでの道案内を頼まれ、見せられたスマホのマップを頼りに同行すると、我が家にたどり着き、目的地は自分の隣であることが判明。凄い奇跡だなと満面の笑みで話しかけてくる彼に対し、隣の部屋が違法民泊だと知った僕は得意のYESを放てなかった。
最寄りの銭湯は刺青が禁止されておらず、知らずに初めて入った時はサウナでたくさんの龍たちに囲まれた。すぐにでも逃げ出したかったが、急に退出すると龍を刺激してしまうかもしれない。かといってビクビクしていると絡まれる可能性もある。そこで僕は「修羅場を潜り過ぎて逆に刺青を入れていません」という顔を作り、まだ6分しか経っていないのに「お、もう15分か」という振る舞いで、あくまで堂々とその場を立ち去った。
22年間、実家暮らしだった僕にとっては刺激的な町。とはいえ大きな事件に巻き込まれることもなく、駅や諸々のアクセスを考えると、プラマイちょいプラスな住み心地だった。家から南に下るとスーパーが一角を埋める大きな交差点があり、そこから15分ほど東に進めば、普段出演しているよしもと漫才劇場に辿り着く。僕はこのまっすぐな道が好きだった。何も考えずただ歩けばいいだけの大通りは、考え事が捗り、この時間で生まれたネタは数知れない。奥まで開けた視界は気持ちを滾らせ、いつも帰り道の凱旋を予感させてくれた。
劇場に向かって5分ほど歩けば左手にファミリータイプのマンションが立ち並ぶ。対面には浪速公園という広々とした場所で、子供達がよく遊んでいた。そんな穏やかな空間を、自分の思いついたボケにニヤつきながら横切る僕は、地域の防犯意識の向上に貢献していたと思う。
さらに進んで歪なヒトデのような交差点を抜けると飲食店がちらほら。昼間はカフェに、夜はどこかの飲み屋に必ず芸人がいる。店に入るとたまたま先輩と遭遇して奢ってもらえることもあれば、後輩の大群に出会してインバウンドしゃぶしゃぶを増やす羽目にもなった。売れていない芸人にとって難波で食事をすることはギャンブルだ。このギャンブルゾーンを抜ければもう劇場。舞台でネタを披露して、夜にはまた同じまっすぐな道を歩き出す。
売れてない現状で胸を張れる日は少なく、凱旋とは程遠い角度の猫背で帰ることがほとんどだった。時には舞台の大失敗が脳内再生され「わあもう!」と急に叫び出し、防犯意識をさらに引き上げた。グロッキーな日には、途中のセブンイレブンで缶チューハイを買い、子供のいなくなった浪速公園の外周を、割と勇気のいる声量でブルーハーツを歌いながら飲み歩いた。お気に入りだったはずのまっすぐが、帰りにはフニャフニャだ。僕もとっくに町の刺激の一部になっていた。
浪速公園での思い出は多い。ビスケットブラザーズの原田さんという公園が大好きな先輩がいて、よく呼び出されては酒盛りをした。ある日、賞レースに負けて落ち込んでいた僕を「家閉じこもってんといつもの公園で飲むぞ!」と気晴らしに誘ってくれたことがある。ありがたく飲ませてもらっていると、最初は励ましの言葉をかけてくれていたが、徐々に酔っ払いだし、ついにはマイブームだったラップバトルを仕掛けてきた。負けたての口で何とか応戦したが、「井の中の蛙、大海を知らず!お前はこの先の大会を知らず!!」と特大のパンチラインを撃ってきた時は後輩ながらビートを止めて胸ぐらを掴ませていただいた。
そんな日々を6年ほど繰り返し、同居人が売れ出したこともあって、シェアハウスは解散となった。
今は稲荷よりも劇場に近い場所で一人暮らしをしている。近所にはまっすぐに続く大通りも、酒盛りのできる公園もない。あの頃と比べれば少しは仕事も増えたが、決して売れているわけではなく、凱旋には程遠い。
芸歴11年目、29歳。これからも場所は違えど、町の防犯意識を上げながらこの仕事を続けていく。当面の目標は、帰り道をまっすぐに歩くことだ。
文・写真=真輝志
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